記事標題に当たり前過ぎることを書きましたが、ホント、そんな感じです。

今日は2025年12月21日ですので、今日を含めれば11日あるので、10日なの?というところで引っかかりもしますが、まぁそういうことです。残りわずかだと言うことに違いはありませんね。

 

 

おそらくですが、事実上、年末年始の6連休を除くと、休暇は年内今日だけ。東京都心は小雨交じりの曇りがちという、お出かけ日和とは言えませんが、ビル内とか地下街とかであれば関係ないので、昼にちょっとだけ出かけようとは思ってます。自由なお休みなので有効に使いたいですから。

 

そういえば、昨日は八角という、なかなかお目にかかれない魚をいただきました。食べる部位は少ないのですが、身がしっかりしていて白身魚の中では好きな魚です。見た目は厳ついですが、オコゼのように食べれば美味しいというパターンですね。

 

そんなわけで、私にとっての事実上、年内最後の休日日曜日。あれこれ考えつつ、今回はここまで。

アップデートというか、バージョンアップ、何事にも必要です、いや必須です。停滞など許されません。特にビジネス領域においては。

──というわけで、今回は最近読み始めた本として、情報法概説 第3版(著者:曽我部 真裕、林 秀弥、栗田 昌裕、出版:弘文堂、ISBN:978-4-335-35916-3、装丁:A5 並製、頁数:640ページ、価格:4,730円(本体4,300円+税))を採り上げます。

 

 

では、最初に著者(出版社)自身による紹介文を以下に引用しよう。

社会のあらゆる面で情報化・ネットワーク化が急速に進行する今日、完全に独立の法分野として確立した感のある情報法。本書は、テーマごとに縦割り的に論じられがちな情報法の世界を体系的に整理し、情報法学特有の課題にアプローチするための足がかりを提供する基本書です。6年ぶりの改訂版となるこの第3版では、章立ては原則として従来を踏襲しつつ、大幅に加筆を施しました。AI利活用の普及やデジタルプラットフォーム規制の進展など、情報法分野の大きな変化を的確に反映し、特定デジタル・プラットフォーム取引透明化法やスマホソフトウェア競争促進法といった競争法関係の新法やプロバイダ責任制限法(2024年いわゆる情プラ法へと改組)・個人情報保護法・著作権法など主要法改正も網羅。生成AI時代で急展開する現代情報法学の羅針盤となる一冊です。

そう、足がかりです。いわゆる情報法群は、定義によってまちまちですが、広大な範囲を取り扱うことに異論はないはずです。しかも、技術の進展に合わせて改定(改正)していくことが他法以上に強く求められる分野であり、そのため大きな改正(特に一括法による網羅的改正が多い、というかほとんど)が頻発し、これらを全て概括的に掴むというのは、生成AIに問うても真っ当な回答など得られません。

 

そこで、こういう知見を持った方々による地道な作業が必要であり、その結晶が本書だと言えます。6年の時を経て大幅にバージョン・アップと帯にありますが、6年というのは時間がかかりすぎだろうというところですが、本書を読めば、いやむしろ6年でこれだけのものをよくまとめたなと思います(こういう作業はやった者でないとわからないです)。

 

どれだけのものを網羅しているのか。詳細目次を引用すれば、それがわかるでしょう。

【詳細目次】

第1編 総論

 

第1章 情報法とその基本理念

 第1節 情報法の定義

 第2節 情報法の基本理念

 第3節 表現の自由

第2章 情報法の規律方法

 第1節 越境性と情報法

 第2節 インターネットの分散性とプラットフォーム

 第3節 表現の自由と自主規制

 

第2編 情報流通の基盤

 

第3章 通信と放送

 第1節 表現と通信の区別

 第2節 通信の自由と秘密

 第3節 放送の自由と規律

第4章 デジタル社会における競争法的ルールとその規制方法

 第1節 デジタル化社会におけるデジタル・プラットフォーム

 第2節 情報・データの流通と競争法・競争政策

第5章 デジタル・プラットフォームをめぐる独占禁止法以外の競争政策的規律

 第1節 特定デジタル・プラットフォーム取引透明化法

 第2節 スマホソフトウェア競争促進法

 第3節 生成AIをめぐる競争と競争法・政策

第6章 媒介者責任

 第1節 媒介者責任

 第2節 情報流通プラットフォーム対処法(旧プロバイダ責任制限法)

 

第3編 個人情報の保護と情報セキュリティ

 

第7章 個人情報保護

 第1節 個人情報保護制度の基礎

 第2節 個人情報保護制度の歴史

 第3節 個人情報保護法制の現状

第7章補論 情報セキュリティ

 

第4編 違法有害情報

 

第8章 わいせつ表現,児童ポルノ

 第1節 わいせつ表現の規制

 第2節 児童ポルノ

第9章 青少年保護

 第1節 総論

 第2節 青少年健全育成条例

 第3節 青少年インターネット環境整備法

 第4節 その他の法律

 第5節 自主規制

第10章 名誉毀損・プライバシー

 第1節 名誉毀損

 第2節 プライバシー侵害

第11章 著作権侵害

 第1節 はじめに

 第2節 著作物

 第3節 著作者

 第4節 著作者の権利

 第5節 著作権の制限

 第6節 著作権の保護期間

 第7節 権利の活用

 第8節 権利侵害

 第9節 著作隣接権

 

第5編 電子商取引

 

第12章 電子商取引と消費者の保護

 第1節 電子商取引に関する法令

 第2節 契約の成立とその効力

 第3節 特定商取引法

 第4節 景品表示法

 第5節 その他の業法規制

 第6節 デジタル・プラットフォームと消費者の保護

すごいですね、マジで。これを640ページに収めているのもまた凄いことです。有用なコラムも多く、足がかりどころか、まずはこれを基本書として理解した上で、専門的に深掘りせよという流れです。

 

通しで読むのがオススメですが、自身が必要とするところから読み始めるのもありでしょう。とはいえ、最初に総論で情報法令の規範をおさえておくことが重要なので、明るくない方(法令を読む初心者的な方)はここを読んで理解しておかないと、ミスリードしてしまうので急がば回れです。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

さて、今回は古い官報を読み漁っているとき、気付いたことについて述べていきたい。内容は、タイトルに示したように東急目黒線不動前駅についてである。

 

不動前駅は、1923年(大正12年)3月11日、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄によって目黒~丸子(現 沼部)間が開通した際、途中駅として設けられたが、開業当初は「目黒不動前」駅だったとされている。典拠は皆が信じてやまない「東京急行電鉄50年史」に掲載されているからだが、これより前に編まれた「東京横浜電鉄沿革史」にはまったくこのことはふれられていない(これだけでなく、確実に変わったと見込まれる小山→武蔵小山も未掲載だが)。ただし、「東京急行電鉄50年史」においても目黒不動前から不動前に変わった年月日は、1923年(大正12年)10月としか伝えず、日まではわかっていないとなっている。

 

無論、私は「東京急行電鉄50年史」の編纂過程を知らないので、決定的な証拠があるのかもしれないが(昭和40年代中頃はまだ目黒蒲田電鉄創業時の運転手等がご健在だった)、おそらくは客観的史料(資料)の一つとして「目黒蒲田間電気鉄道 目黒丸子間線路布設工事竣工監査報告」という鉄道省のお役人による報告書に、次のように記されているからだと考えられる。

  • 目黒停車場 東京府荏原郡大崎町 0哩0鎖0節 本家、乗降場、上家、貨物積卸場、側線その他一式
  • 目黒不動前停留場 荏原郡大崎町 0哩48鎖70節 乗降場、待合所
  • 小山停留場 荏原郡平塚村 1哩20鎖00節 乗降場、待合所
  • 洗足停車場 荏原郡平塚村 2哩12鎖00節 詰所、乗降場、待合所、貨物積卸場、側線
  • 大岡山停留場 荏原郡馬込村 2哩56鎖20節 乗降場
  • 奥沢停車場 荏原郡玉川村 3哩39鎖50節 詰所、乗降場、車庫、側線
  • 調布停留場 荏原郡調布村 4哩09鎖00節 乗降場
  • 多摩川停留場 荏原郡調布村 4哩66鎖00節 乗降場
  • 丸子停車場 荏原郡調布村 5哩15鎖00節 本家、乗降場、待合所
  • 目黒、洗足、奥沢、丸子の各停車場間には電話の設備あり。

もちろん、当時は手書きのものである。この報告書には他にも様々なことが記されているが、駅設備関連のものだけ抜き書きしている。ここには「目黒不動前」とあり、開業直前の監査報告書であるので、これが開業時の駅名であると考えて問題はないとしたのだろう。

 

ただし、この報告書には1か所、致命的な誤りがある。それは洗足停車場(駅)の所属が荏原郡平塚村(現 東京都品川区の一部)とあるが、正しくは荏原郡碑衾村(現 東京都目黒区の一部)である。まぁその他にも報告書名が「目黒蒲田間電気鉄道 目黒丸子間線路布設工事竣工監査報告」となっているが、「目黒蒲田間電気鉄道」と余計な「間」字が挟まっているなど、首を傾げたくなるようなものも見受けられる。鉄道技術には明るいが、それ以外のことにはあまり興味がなかったのかもしれない。

 

では、ここまで話を進めたことで今回確認した資料を示そう。

 

 

これは、大正12年(1923年)3月14日付官報14ページ左下に掲載されている記事で、以下に現在の漢字に置き換えたものを示す。

地方鉄道運輸開始

本月十日東京市京橋区南伝馬町三丁目五番地目黒蒲田電鉄株式会社ニ対シ目黒丸子間五哩二分運輸営業開始

ヲ認可シタルニ同十一日営業開始ノ旨届出テタリ其哩程左ノ如シ(鉄道省)

目黒不動前間 〇・六

不動前小山間 〇・七

小山洗足間  〇・九

洗足大岡山間 〇・五

大岡山奥沢間 〇・八

奥沢調布間  〇・六

調布多摩川間 〇・七

多摩川丸子間 〇・四

ふりがなまでは振らなかったが、要はふりがなが付いたものが初出の駅名というのが、当時の官報における掲出ルールである。よって、最初の目黒~不動前以外はすべて二番目のみにふりがなが付く(○○~△△の場合、△△のみにふりがなが付される)が、最初の行だけは目黒も不動前も初出なので、どちらにもふりがなが付されているのである。つまり、目黒不動前間ということは目黒~不動前であることから、開業時における官報での表記は最初から不動前駅だったとなるのである。

 

果たして、この官報の表記は正しいのだろうか。早とちりな担当者が目黒不動前駅というのを目黒~不動前と勘違いしてしまい、それが官報に掲出されたのだろうか(実際、官報には訂正記事が多い)。あるいはこの官報を見た50年史関係者が「目黒不動前(めぐろふどうまえ)」としてかなが付されているのを早とちりして、最初は目黒不動前としてしまったのだろうか。

 

以上、古い官報をネタにあれこれ不動前駅の初出について語ってみた。ちなみに田園都市株式会社が目黒~大岡山間で申請した際の計画図では「不動寺前」と仮駅名が付き、それが目黒蒲田電鉄に移行した後は「目黒不動寺前」となっている。何か決定的証拠があればいいが、誤りが山盛りの「東京急行電鉄50年史」であるので、こういうことからして気になってしまう。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

最近、古い官報を読み漁っている。もっとも余暇時間を充ててのものなので、研究者や専門家らに比べれば圧倒的に時間がないのだが、それを言い訳にしていては何もできないのでマイペースで進めていっている。そんなわけで今回も官報を見ながらの内容。

 

時は、1926年(大正15年)9月16日付の官報には、次のような記事が載っている。

 

 

哩程を除き、以下に書き出してみると、

○通運

地方鉄道運輸開始 東京横浜電鉄株式会社所属鉄道丸子多摩川、渋谷間五哩七分去月二十八日ヨリ運輸営業開始ノ旨 届出アリタリ其哩程左ノ如シ

駅名 所在地

丸子多摩川 (目黒蒲田電鉄既設駅)

田園調布 (目黒蒲田電鉄既設駅)

九品仏 東京府荏原郡碑衾町大字衾

柿ノ木坂 同府同郡同町大字同

碑文谷 同府同郡同町大字碑文谷

祐天寺 同府同郡目黒町大字上目黒

中目黒 同府同郡同町大字同

代官山 同府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷

並木橋 同府同郡同町大字中渋谷

渋谷 (国有鉄道既設駅)

ということで、現在の東急東横線の渋谷~多摩川(当時は丸子多摩川)間の開通記事で、去月二十八日とあるように8月28日の記事が19日後の官報に掲載されたという流れである。そして、1926年8月28日にはもう一つ開業したものがある。我らが(苦笑)池上電気鉄道の雪ヶ谷~桐ヶ谷間である。官報も上記記事に続けて、

 

 

以上のような記事をつないでいる。前記事で去月二十八日と開業日を示しているので、池上電鉄の記事には「同日ヨリ」という表現になっている。先ほどと同じように哩程以外を抜き書きすると、

池上電気鉄道株式会社所属鉄道雪ヶ谷、桐ヶ谷間二哩九分同日ヨリ旅客運輸営業開始ノ旨届出アリタリ其哩程左ノ如シ(以上鉄道省)

駅名 所在地

雪ヶ谷 (既設駅)

石川 東京府荏原郡池上町大字石川

洗足池 同府同郡同町大字池上

長原 同府同郡馬込村大字長原

旗ヶ岡 同府同郡荏原町大字中延

荏原中延 同府同郡銅町大字同

戸越銀座 同府同郡同町大字戸越

桐ヶ谷 同府同郡大崎町大字桐ヶ谷

このようになる。さて、例のごとく誤りを指摘しておこう。官報も誤りがそれなりにあることや訂正記事もそれなりにあることは以前に示したとおりだが、ここでは長原駅の所在地が誤っている。「馬込村大字長原」とあるが、馬込村には大字はなく(1930年12月20日に大字として南千束及び北千束が起立するまでは、馬込村(町)には大字がなかった)正しくは「馬込村字長原」とするか、他が字名を省略していることを踏まえて単に「馬込村」とするのがよい。(推測だが、鉄道省の誤りというよりは申請をした池上電鉄の誤りという可能性が高い。)

 

さて、ここで思うこととしては、開業後19日経過して官報に記事が掲載されたという事実についてである。鉄道省が官報に掲載依頼をしたのは確実だが、問題は19日も経過したことにある。同様の他記事を見ると、概ね二週間ほど経過した時期に掲載されているので期間は妥当だとも思えるが、すべてを見たわけではないので何ともいいようがない。また、池上電気鉄道よりも先に東京横浜電鉄の記事が載った理由についても何ともいいようがない。そんなことを考えつつ、今回はここまで。

今回は、現在の東京都杉並区にあたる東京府豊多摩郡杉並町(大正15年=1926年6月1日に村制から町制に移行)の大字・小字名が列挙されている地図を眺めながら、あれこれ語っていこうという感じで進めていく。

 

 

昭和初期の地図なので、字は右から左に読み、右上に見える「町方野」とあるのは「野方町」と読む。では、この図に見える地名を拾ってみよう。まずは大字名から。

  • 高円寺
  • 馬橋
  • 阿佐ヶ谷
  • 天沼
  • 田端
  • 成宗

以上、6大字。この6大字は明治22年(1889年)に市制町村制が施行された際、6つの村が合併して杉並村となったが、合併前の6村がそのまま6大字となったもので、江戸期以前よりの名称を継承している。高円寺、阿佐ヶ谷は現JR中央線の駅名にも採用されたこともあって、現在までその名が町名として生き続けている。他に天沼が残っているが、一方で公式には失われたものも3つある。このうち、田端と成宗は現在の成田東、成田西に継承されたいわゆる合成地名で、田端の方は杉並区成立時に「田端→田町」と置き換えられ東田町、西田町となったものに、成宗がくっついた結果となる。そして馬橋は、現在も小学校名や公園名、交差点名など地域に多く残っているものの、町名としては住居表示の際、阿佐ヶ谷と高円寺の浸食を受け消滅した。

 

では、続いて各大字に属した小字名を列挙する。最初は大字高円寺から。

  • 東小沢
  • 中小沢
  • 西小沢
  • 八反目
  • 西山谷
  • 中山谷
  • 東山谷
  • 下屋敷
  • 谷中
  • 東原
  • 北原
  • 中島
  • 宮下
  • 西原

こういっては何だが、全般的に小字名は引き継がれていないものがほとんど。唐突に明治初期の地租改正時に安易に付けられたものもあるが、なかなか地名淘汰の中では生き残るのが難しいということか(例外は後述)。続いて大字馬橋。

  • 往還南
  • 西原
  • 本村
  • 内手

続いて大字阿佐ヶ谷。

  • 小山
  • 東原
  • 西原
  • 原日向
  • 松山
  • 本村
  • 西本村
  • 西向
  • 谷戸山
  • 杉並
  • 東向
  • 清水
  • 東本村

と、ここで注目すべき小字名が見える。杉並である。現在、杉並区役所のあるあたりは、この時代も杉並町役場のあったところで(図中、丸のある箇所)、青梅街道を挟んだ反対側(大字成宗側)にも東杉並、西杉並と見えるように、小字名の由来は青梅街道に植えられていた杉並木にある。6村を合併した際の新村名として、この杉並が採用されたわけである。

 

この理由は、6村の中で圧倒的にこの地域を代表するような村がなかったことに尽きるが、聞こえのいい、通りのいい名称を採用しようという表れでもあったろう。(さらに杉並区となった際も、杉並町の他、和田堀町、井荻町、高井戸町と被合併町があったが、この名が採用されたということも同じような意味合いがあったと見込まれる。)

 

続いて大字天沼。

  • 中谷戸
  • 四面道
  • 小谷戸
  • 山下
  • 宝光坊
  • 本村
  • 東原
  • 割間

この中では、道路交通情報でおなじみの四面道が今も残る有名な名だ(交差点名として)。現在は青梅街道と環八通りの交差点だが、往時も環八通りはなかったが、交通の要衝であった。

 

続いて大字田端。

  • 関口
  • 中通
  • 日性寺
  • 谷戸
  • 大ヶ谷戸
  • 本村
  • 高野ヶ谷戸

大字田端は飛び地となっていて、大字成宗が割り込んでおり、杉並区成立時に東側が東田町、西側が西田町となった。大字名はもちろん、現在まで残っている小字名もない。

 

続いて大字成宗。

  • 東杉並
  • 西杉並
  • 屋倉
  • 天王前
  • 台原
  • 白幡
  • 道角
  • 尾崎

先にふれたように青梅街道に面して区名となった東杉並、西杉並があるが、それ以外は残っているものはなさそうである。

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

まぁタイトルが直截的過ぎるかとも思いつつ、これといって思いつかなかったのでそのまんま。まずは、昭和4年(1929年)に馬込町役場が発行した馬込町地図の一部分、今日の東急池上線洗足池駅あたりを抜粋したものを示そう。

 

 

この地図は北が上になっておらず、正直言って地図の作り方の基本がいまいちだと感ずるところだが、却って馬込町自身が作ったものだと(もちろん委託された人が作ったものではあるが町の指示のもとで作成)感ずるところである。なので、我々が馴染んでいる北を上とすると字がひっくり返ってしまう点はご容赦願いたい。

 

さて、ご覧のとおり現在は洗足池と呼ばれている池は、この地図において「千束池」とあることがわかる。それどころか、かっこ付きで「俗称 洗足池」と主張し、正当な名称は「千束池」だとしている。わざわざこのように表記しなければならないのは、地元にとって「洗足池」という表記が流布されているが、それは誤り(俗称)に過ぎないのだと言うことだろう。

 

昭和4年(1929年)という時期は、既に池上電気鉄道によって洗足池駅が開業し、五反田駅と接続したことで観光地としての便がよくなり、ありとあらゆるメディアに「洗足池」という名称が当たり前とされた時期である。しかも、目黒蒲田電鉄でも洗足駅と名乗る駅ができ、田園都市株式会社の分譲したエリアも洗足田園都市を名乗ったことから、千束ではなく洗足という表記が対外的には主流、いやそうとしか表記されないと認識されていたのである。さらに風致地区として選定される過程においても、千束池ではなく洗足池という表記がされ、洗足公園という名称も使われ始める(翌昭和5年には地元の要望で開設された池月駅(現 北千束駅)が洗足公園駅と改称される)。枚挙に暇がないが、洗足池という表記は対外的には圧倒的だったのだ。

 

しかも千束という地名は、この当時、行政公式地名となっていなかった。江戸期には通称、馬込村千束と呼ばれ、馬込村飛び地だった頃は「千束」という名称も独立した一地域としてしっかり根付いていたものの、明治22年(1889年)の市制町村制の施行によって馬込村は他村と合併せず(正確に言えば、池上村から一部=馬込村千束を飛び地とさせないため、字平塚の一部を馬込村に移行した(下図参照)。しかし、この代償として千束池の池面を池上村に移行したため、馬込村と池上村の境界が池に沿った形となっている)、単独で新制度下の村としてスタートしたため、大字はなくすべて字(小字)のみで構成された。

 

 

この昭和4年(1929年)作成・発行の馬込町地図は、いわゆる千束エリアは耕地整理工事によって道路は現在とほぼ変わらないものの、地番は整理前のままであり、耕地整理前の状況と比較がし易い。千束池に千束と表記される以外に、どこにも千束という表記はない。通称、馬込村千束と呼ばれ、馬込村飛び地だった頃は「千束」という名称も飛び地としての識別で有意だったが、そうでなくなってからは千束は地元及びその周辺でしか意味を持たなくなり、公式地名でなくなったこともあって千束という名は危機に晒されていた。その発露がこの馬込町地図における「千束池」表記となったのではないだろうか。

 

もっとも地図から確認できるように、この池は明治22年(1889年)の市制町村制移行以後は馬込村(千束)の所属ではなくなり、池上村の所属となって、このことは池上村に命名権が移ったといっても過言ではない。池上村では日蓮(立正大師)のお膝元ともいえる池上本門寺など縁の地を持ち、当然馬込村由来の名である千束池などよりも洗足池とした方がいいので、洗足池という名が広まった方がかえってありがたい結果となる。まさに千束の名が風前の灯火となった昭和5年(1930)年、ついに千束地域の耕地整理したエリアは馬込村大字北千束及び大字南千束という公式地名となり、千束の名が今日まで継承されることとなったのである。

 

その後、地元の千束地区でも洗足池を千束池だとは主張しなくなった。これは、町名として北千束及び南千束が残ったことに加え、年月を長く重ねたこともあるだろう。だが、どうしてそのような命名、表記となったかは記憶にとどめておいてもいいのではないかと思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年6月11日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

時と共に読み方が変わるのは、以前にも当blogにおいて様々な例を挙げてふれているが、今回も同様のネタである。今回ターゲットとするのは、当blogでのメインコンテンツの一つと言っていい池上電気鉄道(東急池上線)がらみで、現在も東急池上線の駅の一つ「千鳥町」である。これは「ちどりちょう」と読ませているが、この駅名は1936年(昭和11年)に池上電気鉄道を合併した目黒蒲田電鉄によって慶大グラウンド前から千鳥町に改称されたが、この時から「ちどりちょう」とされている。

 

では、どうして千鳥町という駅名が採用されたのか。それは当時、この駅の位置は東京市大森区調布千鳥町にあり、ここから採用されたものである。だが、この町名の読みは「ちょうふちどりちょう」ではない。「ちょうふちどりまち」が正しいのだ。

 

 

これは東京市が周辺町村を合併した1932年(昭和7年)10月に、新たに大森区が誕生し、この時に命名された一つが調布千鳥町だが、この読み方について以前ご紹介した「特別区町名町区総覧」や同時代資料「大東京市全区町名便覧」においても、「ちょうふちどりまち」と読ませているのである。これは大森区に合併された町の一つ、東調布町が大森区の町として再編成された際の新町名を見れば妥当であると判断できる。

  • 田園調布一~四丁目(でんえんちょうふ)
  • 調布嶺町一・二丁目(ちょうふみねまち)
  • 調布大塚町(ちょうふおおつかまち)
  • 調布鵜ノ木町(ちょうふうのきまち)
  • 調布千鳥町(ちょうふちどりまち)

ご覧のとおり、「町」が付かない田園調布を除くと、すべて「調布~町」形式であり、いずれも「町」を「まち」と読ませている。よって、このことから調布千鳥町は「ちょうふちどりまち」と読むのではないかとなるわけだ。

 

しかし、その3年3か月後に改名した駅名は「千鳥町」と書いて「ちどりちょう」と読ませた。これは西武鉄道における「江古田」を「えごた」ではなく「えこだ」と読ませたり、かつての小田急の駅「大秦野」(現 秦野)を「おおはたの」(現 はだの)と読ませるようなものか。あるいは「ちどりまち」というと語呂が悪い?ということで「ちどりちょう」としたか。はたまたまったく別の理由からなのか。

 

ただし、当初は「ちょうふちどりまち」や「ちょうふうのきまち」が公式の読みだったにもかかわらず、いつしか「ちょうふちどりちょう」や「ちょうふうのきちょう」に変わってしまうこともあり得る。結局のところ、現在の住居表示による町名は単に「千鳥」(ちどり)となっているので、千鳥町を「ちどりちょう」と読ませたところで弊害はない。まぁ、そうはいいながら、駅名による公式読みを駆逐しただろうと思いつつ、今回はここまで。

ヨドバシカメラに出かけて思うことは、かつて新宿西口のみにあった頃、ヨドバシという名前は淀橋(神田川に架かる橋名で青梅街道が通る、遅くとも江戸期初期には架かっていた)から来ていると勝手に若い頃は思っていたのですが、これが町名に基づくものだと知ったのは地域歴史研究を始めた20年ほど前のことでした。

 

ヨドバシカメラが新宿区に店舗を開業したのは、1967(昭和42)年ですが、この時の店舗住所は新宿区西新宿ではなく、新宿区淀橋でした。つまり、よくある地名を店舗名にしたものだったと見込まれます(当時はヨドバシカメラではなく淀橋写真商会)。

 

新宿区淀橋、大変残念ながら住居表示制度の荒波に抗えず、西新宿という町名(の一部)に塗り替えられてしまったわけですが、新宿区自体も戦後、牛込区、四谷区、淀橋区と3区が合併して誕生したものなので、1947(昭和22)年までは東京市35区の一つとして存在した地名(区名)だったのです。

 

 

淀橋区の成立は、東京市が15区から35区に拡大した1932(昭和7)年です。新たに誕生した20区の一つが淀橋区で、これは東京府豊多摩郡にあった淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町が合併して成立しました。4町の合併で淀橋が採用されたのですから、淀橋町は他の3町より繁華であったことが伺えます(新宿駅を抱え込んでいたのですから当たり前とも言えますが)。

  • 淀橋区 = 淀橋町 + 大久保町 + 戸塚町 + 落合町

では、その淀橋町はというと、1889(明治22)年、市制町村制の施行による大合併の結果として誕生しました。成立時、村ではなく町であったことから、この当時から人口は多かったことがわかります。新宿駅というより内藤新宿(宿場町としての)に連続した街道沿いの家々があったことによるものと思われますが、合併前の村々には淀橋という名はありませんでした。

  • 淀橋町 = 角筈村 + 柏木村 + 内藤新宿添地町飛地

淀橋は、当時の角筈村内にあり、これが町名として採用されたのは、この大合併時に見られた合成地名や瑞祥地名が採用されたのと同じパターン(つまり、角筈と柏木のどちらを新町名として採用しがたく、合成地名もイマイチということで、青梅街道に架かる淀橋という瑞祥地名っぽい響きから採用)と見込まれます。

 

こうして見ていくと、橋の名前が町名になり、それが東京市(のち東京都)を構成する区名となり、新宿区誕生時には区の町名として存続(淀橋区淀橋の地がそのまま新宿区淀橋となる)していたものが、住居表示制度の荒波で完全に消滅しました。今では橋名のほか、淀橋町や淀橋区、区内の町名としての淀橋に因んだものが残っていますが、最も有名なものはカタカナではありますが、ヨドバシカメラであると思います。

 

そんなことを寒い日に考えつつ、今回はここまで。

先週は土日も出勤して頑張っていましたが、今日はお休みです。来週以降が本番なので、休める時に休む、ということです。休むぞ〜!

というわけで、せっかく休みにしたので、美味いものを食べる計画を立ててます。都心から離れて、と最初は思っていましたが、朝寒いことが分かったので、根性なしの私はもう遠出はやめました。近いところで、昼と夜、何をいただこうか、と。

 

 

街は至る所でクリスマスっぽい感じの場所が増えているので、そういう所を中心に巡回しようか、あるいは意図的にそういう所を避けて行こうか。寒いから、あんまり外を歩きたくないと弱気を出しつつ、今回はここまで。寒い!

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年6月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、池上電気鉄道の初期の歴史で、ほとんど顧みられることのない支線計画を採り上げる。前回の年表中に1918年4月18日の「支線、目黒~不動前~五反田~二本榎間軽便鉄道敷設特許申請」とあるのがそれで、これは東急50年史巻末の年表に掲載されているものだが、この計画図面(部分)から見ていこう。

 

 

本来なら比較として、現在の東急目黒線や東急池上線を載せるべきかとも考えたが、線が多くなって見にくくなりそうだったことから、図中の計画線や既存線に色を付けるにとどめた。黄緑色は現在のJR山手線にあたり、図中上の方が目黒駅、下の方が五反田駅となっている。黒く塗りつぶされているのは市街地表記なので、目黒駅周辺よりも五反田駅周辺の方が発展していることがわかるが、これは明治末期より大崎駅付近(図の範囲外だが右下あたり)の目黒川沿いに工場が進出し、発展したことが大きい。また、地形的制約もあるだろうか。

 

そして、桃色が池上電気鉄道初期計画の本線にあたるもので、現在の東急目黒線よりもやや北寄り(図では上寄り)に位置する。起点(終点)は、現在の東京都品川区上大崎三丁目27番あたり。現在の目黒雅叙園と杉野服飾大学の境目あたりをくねくね曲がりながら坂を下り、目黒不動尊(龍泉寺)門前付近に目黒不動前駅(停車場)を予定し、そこから大森駅までが本線だった。その目黒不動前から橙色の線が山手線方向に伸び、これもくねくね曲がりながら山手線を越え、東京市ぎりぎりのあたりを終点としたのが、今回採り上げる支線である。

 

この支線は、目黒不動前~桐ヶ谷(のちの池上電気鉄道の桐ヶ谷駅とはまったく場所が異なる別のもの)~霞ヶ崎~下大崎と分岐駅を含めて4駅であり、東急50年史巻末の年表にいう「目黒~不動前~五反田~二本榎」とはならない。この計画図でも「目黒不動前~下大崎計画線」といっており、東急50年史がなぜ「目黒~不動前~五反田~二本榎」としたのかは経緯は不明だが、計画図を見る限り適切でないと感ずる。

 

また、興味深い点として五反田駅付近を通過するものの、五反田駅に近い駅(停車場)は霞ヶ崎であり、五反田駅からやや離れたところに予定された。この場所は、当時の大崎町役場のすぐそばであるので、そのあたりのことも考慮に入っていた可能性もあるが、目黒駅とは異なり、あえて五反田駅を外した理由はわからない。

 

 

上は五反田駅付近を拡大したものであるが、現在の東急池上線と同様にこの場所で山手線を越えるとなると、かなり高い場所に高架線(橋)を作らなければならない。地図上に線を引くだけなら造作もないが、いざ山手線を越えるとなると相当な困難があったはずで、これがどういう経緯で支線として登場したのか、背景も含めて何一つ調査できていない。この支線計画は、目黒~大森間の工事施行認可を受けてから1か月ほどで提出されたことを踏まえれば、目黒を起点(終点)とするだけでは難があったと考えたくなるが果たして実際はどうだったのか…。

 

なかなか疑問ばかりで先に進めないと感じつつ、今回はここまで。