ちょーどーでもいい日本史のはなしそのさんじゅうきゅう | 元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

訳あって現在は非活動的な日々を送っているかつて鉢巻きのサバティエンヌだった者がいずれ元気になって何事かをなさんとの思いを胸に抱きつつなんとなくその時々の出来事などを記すブログ

『日本書紀』の軽大王(孝徳天皇)時代を読んでいると、
やたら「詔」が多いな、って感じます。
強い意気込みを持って大王になり、
新しい政治を始めるのだという使命感に燃えて、
仕事にあたっているのですから、
命令などが多くなるのは当然なのかも知れないですけど、
大王、トップなのですから、
新しい制度を発表するにしても、
「◯◯について新しい制度を定める」など、
基本的な部分だけ自分で言って、
細かい内容は担当者に発表させればいいじゃないですか。
でも、「詔」ってなってるんで、
新制度の発表、諸々の命令など、
細かい数値のような部分まで、
大王が自分の口で発表してるんです。
ほかに軽大王が行なったこととして、
目安箱みたいなものを設置して、
人々からの訴えがあったら、
その内容を書いたものをその箱に入れさせて、
箱の中身を毎日チェックしていたようです、軽大王が、自分で。
『日本書紀』は、各天皇(大王)の時代の初めに、
その天皇(大王)がどういう人物なのかを説明するのですけど、
軽大王については、
「身分の低いものから高いものまで誰に対しても自分で直接話をした」、
って書いてあるんです。
わざわざ書いてあるってことは、
それがその人の個性と捉えられるほど珍しいことだった、
と解釈できます。
軽大王が大王になって割とすぐくらいに、
役人・官人たちに対する禁止事項の命令を出しているのですけど、
それから半年ちょっと経った時に、
その禁止事項に違反した人物を、28人、全員の名前と違反内容、
さらに違反はしてないけど仕事に不足があった者2人、
命令をよく守ったと褒めた者6人、
これもまた全部自分の口で発表しています。
これらのことから推測するに、
軽大王は、大王という「政府」のトップでありながら、
どんな細かい情報でもすべて自分に知らせさせ、
誰に対しても自分自身が直接話をして、
制度・命令の細部に至るまで自分で考えて、
すべてを自分自身で発表し、
制度や命令の実行に関してもこと細かに自分でチェックするという、
何でもかんでも自分自身で行わねば気が済まない人物だったのでしょう。
この時代のことなので、
今の政府とは比べものにならないくらい小さい組織なんでしょうけど、
それでも5人、10人の零細企業じゃないんですから、
トップが何でもかんでもやろうとするのは、
その組織に所属する人間にとってきっと鬱陶しかったに違いありません。
しかも、かなり神経質な人間で、
重箱の隅をつつくような細かなことまで、
いちいち気にかけていたと思われます。
軽大王の時代、「政府」で働いていた官人たち、
「政府」に関わりを持っていた王族・豪族たち、
さぞや息苦しかったことでしょう。
軽大王が大王であることに、
王族・豪族・官人たちは嫌気がさしていっただろうと思えてなりません。
王族・豪族・官人たちが別のトップを求めるようになり、
その結果が軽大王の9年目の、
葛城王(中大兄皇子)が、
前大王の宝王(皇極天皇)その他の王族とともに飛鳥に転居してしまい、
豪族・官人たちがついて行ってしまった、
という『日本書紀』の記述に見えるできごとなのでしょうけど、
ここについて、もうちょっと考えたいことがあるので、
それは次の記事で。
ではまた。