ちょーどーでもいい日本史のはなしそのよんじゅう | 元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

訳あって現在は非活動的な日々を送っているかつて鉢巻きのサバティエンヌだった者がいずれ元気になって何事かをなさんとの思いを胸に抱きつつなんとなくその時々の出来事などを記すブログ

何でも自分自身でやらねば気が済まず、
神経質で細部に至るまで気にかける軽大王(孝徳天皇)に、
嫌気がさしていたのは葛城王(中大兄皇子)も同じだったでしょう。
葛城王も、自ら重要人物である蘇我入鹿に手を下そうとするほど、
やる気(殺る気?)にあふれた人物ですし、
軽大王政権に対しては、
その創設に大きな功績があったとも自負していたでしょうし、
軽大王政権においては重職に任じられ、
意義のある仕事を任されることを期待していたでしょうに、
何でも自分でやってしまう軽大王のもとでは、
碌に自分の意志で行動することも適わず、
思うような活躍ができずに不満を募らせていただろうことは、
想像に難くありません。
血気盛んな若者である葛城王が我慢の限界に達して、
組織を飛び出した、というのが、
軽大王の9年目に、葛城王が、
難波(現在の大阪府)にあった軽大王政権の宮を出て、
飛鳥(現在の奈良県)に転居してしまった、
というできごとの実態なんじゃないかと思っています。
軽大王を捨てて新たな政権をたてるというほどの大それた考えではなく、
出奔や家出みたいなものだったんじゃないでしょうか。
その際、葛城王の母親で前の大王だった宝王(皇極天皇、称号:スメミオヤ)、
葛城王の同父同母妹で軽大王の妻になっていた間人王、
同父同母弟の大海人王をはじめとする王族を連れて行ったとありますが、
みんな自分で考えられる程度には大人のはずですから、
連れて行ったというよりはついて行ったという方が正しい気がします。
個々人である程度理由に違いはあれど、
神経質な軽大王にみんな嫌気がさしていたんでしょう、きっと。
短気な葛城王が、
といっても8年くらいは我慢したしそんなに短気でもないですかね、
出ていったのを、これ幸いと、
宝王も間人王も大海人王その他の王族も一緒に行くことにした、
ということなんだと思います。
まあ、妻になっていた間人王まで行っちゃったのは、
軽大王が気の毒な気もしますが、
基本的にこの時代は、
好きなら一緒になる、好きじゃなくなりゃ別れるだったようですし、
間人王と軽大王の婚姻は政略的なものだと思われるので、
通常の婚姻関係よりは拘束度は高かったかも知れませんけど、
それでももう嫌で嫌で嫌で嫌で、
この政略結婚に関わった周囲の者も仕方ないと思うくらい、
間人王が軽大王を嫌っちゃってたんでしょうね。
私が間人王の立場だったとしても、嫌ですね、
こんな鬱陶しい男と結婚させられているのなんて。
そして、やっぱり軽大王に嫌気のさしていた豪族や官人たちも、
一部王族たちが軽大王政権をあとにしたのを見て、
ついて行ったということなのでしょう。
それにしても、豪族・官人たちは誰について行ったのでしょう。
そのあたりは次の記事で。
ではまた。