ちょーどーでもいい日本史のはなしそのさんじゅうはち | 元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

訳あって現在は非活動的な日々を送っているかつて鉢巻きのサバティエンヌだった者がいずれ元気になって何事かをなさんとの思いを胸に抱きつつなんとなくその時々の出来事などを記すブログ

『日本書紀』に見える、軽大王(孝徳天皇)時代の、
数少ない葛城王(中大兄皇子)の登場場面を書き出します。
なお、9年目の軽大王と葛城王の関係決裂以前についてです。

①1年目9月
葛城王は古人王謀反との内部告発を受け、
兵を送って古人王を殺させた。

②2年目3月
葛城王は軽大王に使者を送って、
「大王から『豪族・王族が私的に領有している土地・人民を、
 そのままにすべきか否か』と問われたので、
 私は『軽大王時代に新しく定めた制度の分以外は、
 大王が直轄すべきと考えますので、
 私的に領有されていた人民524・土地181を、
 大王の直轄にするよう献上します』と答えました」
と伝えた。

③3年目12月
葛城王の家が火災に遭った。

④5年目3月
左大臣阿倍内麻呂が死んだので、
大王・前大王・葛城王・官人たちが弔った。

⑤5年目3月
葛城王は蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企んでいるとの密告を受け、
軽大王に伝えた。
(軽大王は使者を送って蘇我倉山田石川麻呂を詰問したが、
 「大王に直接話す」としか言わなかったので兵を差し向けた。
 蘇我倉山田石川麻呂は自害した。)
その後、謀反は冤罪と分かり、葛城王は悲しんだ。
(密告者蘇我日向は九州に左遷された。)
葛城王の妻になっていた蘇我倉山田石川麻呂の娘が、
心痛のあまり死去し、葛城王は悲しんだ。

⑥6年目2月
大王に献上された白い雉を見る行事が行われ、
大王は葛城王をそばに呼び寄せ一緒に白い雉を見た。

⑦9年目6月
僧旻が死去し、大王・前大王・葛城王などが弔いの使者を送った。

以上です。
少ないですし、
能動的に動いたのも最初の古人王を殺させたくらい、
『日本書紀』を読むかぎりでは、
葛城王はほとんど活躍というか活動していないように見えます。
私はそのあたりが、
2人の関係の決裂に繋がっているのではないか、
と考えておりますが、
それについては次の記事で。
ではまた。