前項の続き | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 ×××さんに、ひどいことを書いてしまった。

 

①「どんな地域、どんな家庭にどう生まれるか、どんな親にどう育てられるかは誰も自分で選ぶことはできない」

②「しかし、(ある程度生きれば)他者や社会に対してどう向きあうか、どう接するかは(ある程度)自分で選ぶことができる」

 

 ×××さんが言いたかったのはそういうことであるかも知れません。

 「選択」と「責任」は常に共にあります。「選択した覚えのないこと」「選択の余地がなかった(と思われる)こと」について、人は責任を免れ、「選択したこと」については常に責任を問われ得ます。

 ついでに言っておきますと、「覚えがなければ」、「選択した」とは言いません。スピリチュアル何とかいう肩書の人がよく言う「人は親や環境を選んで生まれてくる」とかいう説はこの場合、完全に退けてよろしい。

 

 あたしが本項で言いたいことは、②において明らかに間違った選択をしたと思われる時、①のために免罪されることはない、されるべきではないということです。

 ×××さんが言いたかったのも多分そういうこと。

 

 政治の働きというのは、その「ある程度」の選択肢を全ての人に対し、できるだけ広くすることです。