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 「野性の証明」という映画を知っていますか。

 森村誠一原作というだけで、実はあたしも細かいことはあまりよく知りません。家族がTVで観ていました。

 最後、主人公(高倉健)が死んだ少女(薬師丸ひろ子。当時は子役でした)を背負って、たった一人で自衛隊の大戦車隊に向かって発砲しながら歩いて行く様子を正面からアップで撮ったラストシーンが印象に残っています。無辜の少女は彼と行動を共にしたばかりに、巻き添えになって自衛隊の銃撃を受け、非業の死を遂げたのです。

 よく、こんな自衛隊(国家権力)をあからさまに悪者にするような映画が製作できたものだなあと思いました。今の政権だと、どこか高い所から待ったがかかってお蔵入りになったりするかも知れません。

 

 母は映画も活字も好きで、割と理解力がある方なのですが、この時だけは、「高倉健が何をしたかったのかわからん」みたいなことを言っていて、あたし「死のうとした、恐らく死んだに決まってる(呆)」母「あ、そっか(笑)」となったことも覚えています。

 

 何が言いたいかというと、あたしは、暴力というものは正しくない、許されてはならないと思っています。普通はそうだと思います。

 

 革マル派か中核派かよく知りませんが、島田さんと一緒にそういう極左暴力集団に近い人たちと飲んだことがあります。また、島田さんとあたしで作った分裂組合かしわもちユニオンにも、一時期そういう人がいたことがありますし、極左青年のアジトのようなシェアハウスを島田の住居兼かしわもちの事務所にしていたこともあります。

 彼らは確かに暴力を肯定するのですが、それでも何でもかんでも肯定するわけではありません。それではただのヤクザになってしまいます。

 飽くまで限られた場合だけであり、「どんな場合なら許される(と思う)か」というのを彼らはちゃんと弁えていると感じました。話していて、寧ろ普通の人たちよりもヒューマニストで、倫理とか道徳とかいうことに関して深く突きつめて考えている人たちだと思いました。

 彼らはアナキストですので、「法律で決まっているから、暴力はだめ。法律でだめなものはだめ」というのは通じません。

 でも、法律でものごとの善し悪しを決めない、己の行動を律さないとするならば、各自が常に自分の頭や良心で決めないといけない、律さないといけないということにはならないでしょうか。

 

 あたしは革マル派や中核派に入りたい、暴力を振るいたい、進んで法律を破りたいとは思いませんけれども、「『正しい暴力』というのはあるかどうか」「あるとしたら、どんなものか」というのは考えることがあります。

 映画「野性の証明」の高倉健の最期の選択は、その一つのモデルと言えるのではないかと思います。

 

 そこで、「いや、ここで暴力を振るったらまた罪が重くなる」とか言って座りこんで撃ち殺されるのを待つのか?それとも捕まるのか?捕まって裁判を受けてみるのもいいかも知れないが、いや、やっぱりあたしが高倉健と同じ状況なら(あるわけないですが)、同じようにするなあ、と思います。

 

 それとか、彼氏や夫に散々ひどい仕打ちをされた彼女や妻が、ついかっとなって相手の頬を一発ひっぱたいてしまった、ボコボコに殴ってしまった、ああすっきりした、別れる決心がついた、とかいうのも「正しい暴力」だと思います。

 英語圏には「バタードウーマンシンドローム」という言葉もあります。

 

 島田さんは法律に拘る傾向にあるんですけれども(その割にいきなり極左に振れたりする所が彼のぶれやすく極めて不安定な性質を如実に物語っていると思いますけれども)、「合法である」と「道徳的に正しい」というのはイコールではないはずです。

 彼たちは、「名誉棄損」とか「侮辱罪」とか「脅迫」「強要」に当たる違法行為をしたのはあたしの方であり、それに対する訴訟というのは合法的な手続きであるから、自分たちは悪くない、と言い張っています。

 あたしがやったことが「正しい(言葉の)暴力」とは言いませんし、言葉の暴力だろうが実際の暴力だろうが、飽くまで法律上は「正しい暴力」なんてものは存在しないのはわかっています。正当防衛が認められた場合と、死刑の執行くらいでしょうか。

 でも、あたしは彼らのしていることの方が紛れもない「悪徳」であり、あたしへの深刻な「暴力」であるという認識を変えるつもりはありません。

 いくら話しあっても彼らは認めないだろうと思いますが。

 

 明らかに社会常識を逸脱した、アンバランスな訴訟提起は「濫訴」とか「スラップ訴訟」といって、不当性が認められれば逆に訴えて損害賠償を求めることもできる、と京大の先生の研究論文にもあるんですけどね。

 まだ、そこまでは考えられません。とにかく目の前にあることを片付けるのみです。

 

 ちなみに、「野性の証明」の英題は「Never Give up」らしいです。