「みんな俺みたいに独身でいた方がよくね?」(新約聖書「コリントの信徒への手紙Ⅰ」7:7) | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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あたしは「夫婦愛」というものをよく知らないのですが、どんなにお互いを大切に思い、愛しあっている夫婦も最後にはどちらかが先立つわけで、その時の悲しみや苦しみは如何ばかりだろうとよく思います。

心が引き裂けるどころではない、きっと自分の半身をもぎ取られるような気がすることでしょう。親が死ぬよりも堪えると思います。

 

また、十代や二十代前半などのごく若い内に、「ただもうお互いの見た目とか劇的なシチュエーションとかが好きで好きで」とロマンスに押し流されるままに結婚したような夫婦をあたしも何組か知っていますが(両親もそうだったかな?)、お互い情熱と万能感を共にした光り輝くような若者だったのが年々老いて衰えていくのを最も間近で見ていないといけなくて、やがては介護の必要な老人になったりもする、というのはどんなもんやろう?と思います。

実際、亡父はイケメンだったのがその後だいぶ容貌が変わっていたらしく、それを伝え聞くと別れてよかった気もする(-_-)と母も言っていましたし、地味な同系統の、お互いあんまりセクシーな感じのしない、それもある程度の年になってから一緒になった男女だったらそういう辛さはあんまりないんやろうなあ、と思ったりします(_^;)

 

いずれにせよ、周りの既婚者(特に子持ち)を見ていると、幸せそうというよりも鎖に繋がれているような気がして、少なくとも自分には結婚生活、というより、誰かと暮らす生活というのは向いていないんだろうと思います。

 

わたくしの好き好き大好き超愛してるパウロ様は当時としては結構異例なことに、生涯妻帯しませんでした。

結婚については古今東西共通で、男女でだいぶ捉え方、位置付けの仕方が違うとは思いますが。

 

故・榎本保郎牧師は、結婚は人間にとって大切なものだと考えていたらしく、「結婚しなかった所にパウロの限界がある」と断じています。

あたしの考えは逆で、「結婚しなかったからパウロには限界がなかったんだ」と思います。

これはあたしの想像に過ぎないので信じないでほしいのですが、独身だったからこそ、あれだけ精力的且つ敏捷に地中海世界を飛び回れたのだと思います。他の主な使徒があまりエルサレムから出て来れなかった節があるのは、ギリシャ語が話せなかったとか、異邦人伝道に乗り気じゃなかったということもあるかも知れませんが、やはり、それぞれ家庭を持っていたからではないかと思うのです。

歴史に「if」はないとはいえ(実は個人の人生にもありませんが)、「パウロに煩いカミさんがいたら今頃キリスト教なんかないかも知れませんよ」と心の中で榎本さんに言っています(_^;)

第一、結婚が人間や信仰者にとってそんなに大切なものなら、カトリックの神父やシスターの存在意義は崩壊ではないでしょうか(_^;)

 

ちょっと横道に逸れますが、私的見解としては、「職業宗教者の道」と「結婚」というものは本来二者択一であるべきだと思ってます。両方ともってのはない。

この問題はいつか小説にしたいと思ってるくらい個人的に関心のあるテーマです。

日本のお坊さんはみんな結婚してるし、それどころかお寺は世襲制のようになってますけど、本当はいけないんですよ()。何の為に剃髪して墨染の衣を着てるんでしょうか。あれは「誰とも性的な関係を結びません」って意味でしょうが。

浄土宗・浄土真宗の僧侶(剃髪していない)やプロテスタントの牧師は戒律で禁じられてはいません。寧ろ他の職種の人と同じで、結婚している方が人から信頼されたりもするみたいです。

しかし、大変厳しい、且つ下世話な言い方をすると、やはり、「職業宗教者も結婚していいし、するべきだ。結婚してこそ色々なことがわかる(キリッ」なんて、「神仏をネタにして飯を喰うこと」とセックス、両方とも諦められないヤツの言い訳に聞こえます。

 「誰ともそういう関係になりません」という芸当ができるからこそ、神仏をネタにして飯を喰うことが許されているというか何というか。だから逆に言えば、Aセクシャルとかノンセクシャルとかそういう人には最適の職業なのかも知れません。

 

話を元に戻しますが、あたしの友だちがよく、「早く結婚しなさい」「結婚してこそ人間は一人前」「結婚しないのはどこか人として欠陥があるからだ」というものの言い方をされるのが苦痛だと訴えてきます。あたしの周りにはそこまで露骨に言ってくる人はまずいないので信じられない思いです。

田嶋陽子さんが、「結婚もしないで何がわかるんですか!?子どもも産まないで何がわかるんですか!?」という一般人からの詰問に答えて、「じゃああなたは結婚して何がわかったの?子どもを産んで何がわかったの?」「我が身を犠牲にしてもいいと思うくらいに人が人を思う深い愛、そういうものを独身者や子どものいない人が知らないと思うことが無知であり、想像力や人間理解に欠けているのではないかな」と言っているのを読んだことがあります。

「戦争に反対するママの会」とかよく取り上げられますし、「安倍は子どもがいないから」とか言ってる人もたまにいますけど、「親だからいのちの大切さがわかる」「親じゃないからわからない」っていうのはなんか違和を感じますね。

あたしは自分が誰かの母親ではなくても、誰の子どもも戦争で死んだら嫌です。

 

この間ご紹介した「フィリピの信徒への手紙」と読み合わせても、ほんとに田嶋さんの言う通りだと思います。

 

今更ながらに、著者のパウロはキリスト教の教義を確立し、3060年代の地中海世界一帯に教えを広め、教会を建てて回った人です。新約聖書の多くの部分は彼の布教活動の記録と、彼自身が信者に書き送った手紙で構成されており、キリスト教という宗教の開祖はイエスというよりも彼と言った方が事実としては正確です(「イエスをキリスト=救世主と信じる宗教」が「キリスト教」であって、「イエスの教えを信じる宗教」ではないので)