そいで「差別」って何なのさ? | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 先日、「差別」をテーマにした討論会に集う機会がありました。

 それを契機に、自分も「差別」についてもう一回、ごく簡単にまとめておいてもいいかなという気になりました。今までに書いてきたことと重複する内容が殆どなんですが、ホンマ、あたしの過去の文章をマメに読んでる人なんて少ないと思うので、ここら辺りでもう一回やってもいいかと思った次第です。この間の「四面楚歌でありえす」の記事と併せて読んでもらってもなかなか興味深いかも知れません。

 ベースは、以前、「俺が韓国人差別をするのは根拠がはっきりしていることだ」とネットの掲示板に書いておられた方にお答えした時のやり取りです。

 

 実際このように、「差別の何が悪いのか」「差別は必要だし、人間には差別をする権利がある」「私は大いに差別をする」という言説もよく耳にするんですね。

 で、恐らくこういう人たちはそもそも、「差別」とは何なのか、ということがわかっていらっしゃらないんです。「区別」と混同しておられるパターンが多いです。

 でも、それに対して反論する側も、実は「差別」とは何なのかがよくわかっていなかったりする。

 「差別」とは何なのか、実体がはっきりしなければなぜ悪いのかの説明もできませんし、いつも言っていますように、言葉の定義をちゃんとして、共有しないまま議論をしても議論にはならないんです。

 

 お話を戻しましょう。

根拠がはっきりしていて、尚且つ侮蔑の念の込められていないカテゴライズは「差別」ではなくて「区別」です。

「××さんは韓国人だ」「名倉は日本人だ」「名倉は女だ」「名倉は母子家庭出身だ」だけでは差別になりません。客観的な事実を言っているだけです。

 逆に言うと、根拠のない偏見や、侮蔑の念の込められたカテゴライズを「差別」といいます。
 偏見とは何かというと、本来ABという別々の概念を、「AだからBだ」と結びつけたり持ち出したり、「AはみんなBだ」と決めつけたりすることをいいます。

この例でいうと、「韓国人はみんなバカだ」「韓国人だからバカだ」これが偏見、「韓国人のくせに」「チョン公が!」これが侮蔑ですね。
 

 みんなよく勘違いするんですが、「いい差別」「正しい差別」「残しておいた方がいい差別」なんてものは存在しません。
 差別はそれ自体が悪いものであり、なくすように努力しないといけないものです。
 これ戦争と入れ替えても同じですね。

 

 ちょっと視点を変えましょうか。

 

A「なんであたしがサークルのリーダーをさせてもらえないんでしょうか」

B「そりゃ君が女性だからだ。女は感情的で、論理的にものを考えられないし冷静な判断ができない。生理周期ってものがあるから余計にそうだ。肉体的にもアンバランスだし、体力もない。行事で帰るのが遅くなったりしても危険だ」

A「それって差別って言いませんかね?あたし個人に素質がないというなら、そう言ってもらえれば諦めますが、性別を持ち出したり、性別に結びつけたりするのはおかしい。平等に判断して下さい。人間は平等でしょ」

B「人間は平等じゃないよ」

A「え!?

B「平等じゃないから、平等にする為に政治があるんだよ」

A「いや、それってなんかおかしいですよ」

B「おかしくないよ。五体満足な君と身体障害者は平等か?同じように働けるか?そうじゃないから福祉があるんだと思わないか?」

A「いや、それはやっぱりおかしいです。だって、身体障害者は身体障害者に生まれたくて生まれたんじゃない。たまたまです。

あたしだって健常者に生まれたのはたまたまです。それでよかったとは思いますが、でも、例えばですけど、『身体障害者ならみんなから親切にされて、働かなくても生活していけるから、あたしも障害者だったらよかった』と思ったとしても、健常者にしか生まれることができなかった。それって平等じゃないですか?」

 このAというのはあたしです。これはあたしが昔、大学の上級生としたやり取りです。
 結局、Bに適当なことを言われて黙らされてしまいました。

 でも、今から思ったら随分といい所まで追いつめていたと思います。
 「健常者に生まれるか障害者に生まれるか、男に生まれるか女に生まれるか、日本人に生まれるか韓国人に生まれるか、裕福な家に生まれるか貧乏な家に生まれるか、誰も自分で決めることはできない」というのが本質的平等の意味、またはその根拠です。
 それに対し、「どこにどんな風に生まれても差別的な扱い、不利益、不当、不公平な扱いを受けない」のが社会的平等です。
 本質的平等があるが故に、社会的平等は(できるだけ)守られねばならず、目指されなければなりません。

 
 人間社会を陸上競技に譬えてみましょうか。
 陸上競技ならスタートラインはみんな同じですが、人間社会の場合、残念ながら、スタートラインはみんな同じではありません(社会的不平等。Bの言でいうと「人間は平等じゃない」というのがこれに当たります)。
 でも、少しでもフェアなレース(社会的平等)になるように、人間社会全体で常に調整していく必要があります。これがBくん言う所の「政治」とか「福祉」とか言われる働きに当たりますね。
 なぜなら、「どのスタートラインに立つか」は誰一人として、自分では選べないからなんです。正にこのことを指して「本質的平等」というのだ、と最近は思っています。
 
 Bは「本質的平等」と「社会的平等」を恐らく意図的に混乱させて、 逆に本質的平等を尊重せず、社会的不平等(即ち差別)を助長しようとした自分の態度を巧みに正当化したわけです。

 

 すると、こんなご意見があります。

 

 「尊厳が認められるかどうかが肝心な点で、それさえなんとかなるなら能力や身体的な違いによる仕事への制限はあっても問題にならないと思う。つまり、仕事ややってることの内容によって(またはやってないことによって)人の尊厳にまで差異があると考えること自体が問題の核だ」

 

 賢明な読者様は既にご明察のことでしょう。おおよそ正論なのですが、問題はここですね。

 

 「能力や身体的な違いによる仕事への制限はあっても問題にならないと思う」

 

 それに対するあたしの答えはこうです。

 

 「『君は能力がないから指導的な立場に就かせない』『君は男性だから子どもを妊娠して産むことはできない』『君は肢体不自由だから野球選手にはなれない』じゃなくて、『女だから指導的な立場に就かせない』っていうのは不当だと思いませんか?
 ではあなたが男性だとして、『男は攻撃的で乱暴で人の話が聞けないし、性欲の塊で射精を我慢できない。行事で帰るのが遅くなったり酒が入ったりしたらレイプ事件を起こす危険があるから指導的な立場に就かせない』って言われたら不当だって思いませんか?」

 

くどいようですがもう一回言いますと、差別とは、
 

・偏見と侮蔑の念の込められたカテゴライズ
・それによって一方が社会的不利益(精神的苦痛も含む)を蒙っているもの

 でしょうね。
 で、偏見とは何かというと、前述の通りです。
 ものごとのごく一部、一側面しか見ていないのにそれで全体を判断しようとすることです。読んで字の如くですね。

 昔、またまたネットで、「二十過ぎて性的な経験のない奴はやっぱりどこかおかしい」と言っている人があったので、「そりゃ偏見だ」と言った所、「自分の周りの人を見て言ってるんだから全然偏見じゃないし」と返ってきました。

 それを偏見っつーんですが