参考エントリー1
併合前のキリスト教団体状況(一)
参考エントリー2
併合前のキリスト教団体状況(二)
参考エントリー3
併合前のキリスト教団体状況(三)
参考エントリー4
韓国地方政況ノ概要(一)

写経屋の覚書-なのは「今回は、キリスト教と教育の関係について触れていくんだけど、興味深い記述が多いから史料テキストを区切りながら見ていくね」

写経屋の覚書-はやて「作者の中では、えらい盛り上がっとる箇所らしいなぁ」


写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_17
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_18
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   第三 外国人宣教師と教育
    甲 宗教宣布の手段と学校の設立
次に外国宣教師の設立に係る宗教学校に関して略叙すへし米国宣教師か初て韓国に伝道を開始したるは前述の如く二十七八年前にあり爾来英仏の宣教師交々来て布教に従事し其傍ら学校を起して韓国人子弟を教育するに努めたり今各派勢力分布の跡を見るに米国長老教会派最も盛にして之に次くものは米国監理教会派及英国聖公会派なりとす而して長老派の教師の重なるものはアンダウード及ゲールの二人監理派の監督はドクトル.ハリス聖公派の監督はターナーなり巍然たる教会堂を京城に有する仏蘭西天主教はミューテルの司宰する所近く渡来したる救世軍にオッカー大佐あり而して外国宣教師は何れも京城に本部を有し各地に支部を設けて以て大に布教伝道に努む

写経屋の覚書-フェイト「最初は各教派とその代表者の紹介だね」

写経屋の覚書-なのは「長老派と監理派については、参考エントリー1の併合前のキリスト教団体状況(一)、天主教と救世軍については、参考エントリー2の併合前のキリスト教団体状況(二)に詳しく書かれているから見ておいてね」

写経屋の覚書-はやて「監理派って、参考エントリー1にあるようにメソジストのことでええねんな?あと、救世軍のオッカ―大佐って、ホッガードのことやんな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。次回に見る表でも、監理派にメソヂスト・エヒスコーバルとルビを振ってるし、どっちもそれで間違いないよ」

写経屋の覚書-フェイト「英国聖公会派については、獄長日記の方では触れられてないね」

写経屋の覚書-はやて「フェイトちゃん、ちょぉ待って!代表者のターナーって参考エントリー3の併合前のキリスト教団体状況(三)と、参考エントリー4の韓国地方政況ノ概要(一)に出てくる基督教青年会の会長ちゃうん?」

写経屋の覚書-なのは「はやてちゃん、正解♪ 基督教青年会のターナーと英国聖公会派のターナーは同じ人なの」

而して之か布教上の手段として巧慧なる彼等は宗教の新開拓地たる韓国に於て先つ之を宣布するに当りてや此国の人情風俗に投合するを以て其第一要件となしたり否之を利用するに腐心せることは各地到る所に其事実を指摘することを得へし誤少しく岐路に入るも彼等か韓国に伝道すへく宣教師として新に渡来するや先つ其一年有半を以て韓語の研修に専らならしめ韓語を以て布教し得るや否やを試験したる後にあらされは俸給を増加せすと以て周密なる注意の一端を知るへし斯の如くして彼等は各地到る所韓国人の伍伴に入り其風俗習慣に迎合して宗教の宣布に努む

写経屋の覚書-フェイト「語学研修が優先ってなんだか留学生みたい。でも優先順位としてはいいことだよね」

写経屋の覚書-はやて「『其風俗習慣に迎合して宗教の宣布に努む』って、たとえばどんな習慣にあわせたんやろ?」

茲に一例を挙くれは京城に於ける長老派の教会堂に於ては今日に至る迄韓国古来の慣例たる男女不同席の制を遵守して教会堂内の中央に縵幕を以て男女の席を区画し居れりと云ふ

写経屋の覚書-はやて「儒教の『男女七歳にして席を同じうせず、食を共にせず』やね。出典はえーっと…(カンペ見ながら)…『礼記』の内則にある『七年男女不同席不共食』やんな」

写経屋の覚書-なのは「うん。その習俗を守れるよう、教会堂の真ん中にカーテンで仕切りを作って、男の子と女の子の席を分けたってことなの」

写経屋の覚書-フェイト「うまく考えてるんだね…え?ってことは女の子も教会内で教育を受けていたってことだね」

或は地方に於ける日韓両国人の係争事件等あるに当り韓国人子弟の為めに彼等は其理非を正し曲直を究め仲裁和解の労を吝ます進では之を警察官憲、理事官に訴へて其救済方法を講する等あらゆる手段を尽し韓人の信頼と尊敬とを収むると同時に韓人をして其冤枉を訴へ窮地より脱するは宣教師に依るにあらされは能はすとの感を懐かしめつゝあるは蔽ふへからさる事実なり

写経屋の覚書-フェイト「地方で日本人と韓国人の争いがあったら、韓国人のために弁護代言してあげて、警官とか理事官に話をして、仲介とか和解の手伝いをするの?」

写経屋の覚書-なのは「そうして韓国人の信頼と尊敬を得るというわけなんだけど。ま、それは当然の成り行きだよね。でも『韓人をして其冤枉を訴へ窮地より脱するは宣教師に依るにあらされは能はすとの感を懐かしめつゝある』ってのはどうかなぁ?」

写経屋の覚書-はやて「それって事大根性やん!」

然れとも善意を以て之を見ればこは彼等宗教家として其天職を尽すものなり民人の疾苦を聴き無辜を救ふは人道に基く当然の道なるへし否彼等にして斯の如く放言せんも何等言を挟むの余地なかるへし而かも予を以て之を見れは韓国に於ける基督教宣教師が巧に韓国の国情人気に投合するに汲々たるや教育熱勃興の気運に乗して盛に学校を起して其子弟を薫陶し以て其宗教宣布の用に供しつゝあり寧ろ韓国に於ける宣教師の事業は学校を主眼として宗教を副とするが如き観ありと云ふを得へし夫れ斯の如き沿革、動機、手段に依りて今日多数の宗教学校を生し出てたるものなりとす

写経屋の覚書-フェイト「で、でも、好意的というかいい方向での解釈もしているんだね」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、宣教師の中には『治外法権のある外国人宣教師を頼れば治外法権を適用される』とか煽っていた連中もおったみたいやけどな」

写経屋の覚書-なのは「今回はここまでにして、次回は宣教師による宗教学校の統計について見ていくね」

俵学部次官演説要領(明治43年7月)(1)
俵学部次官演説要領(明治43年7月)(2)
俵学部次官演説要領(明治43年7月)(3)

写経屋の覚書-なのは「今回はやっと教育熱勃興の動機について触れるよ」


$写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_14
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_15
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_16
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_17


    乙 教育熱勃興の動機
日露戦役後明治三十八年第一次日韓協約以来国運の変転に遭遇したる韓人は其頭脳に強き印象を刻して教育に依るにあらされば国権の恢復を望むへからすとなし殊に明治四十年の第二次日韓協約の締結軍隊解散後に於ては教育の必要を感するの念著しく激発鬱勃し解隊の将士各地に散して或は暴徒草賊の羣に投し或は職を学校教師に求めて教育熱の激増を誘発し其風滔々として国内に瀰漫し遂に今日の如き多数私立学校の設立を見るに至りたり尚学校濫設の動機の詳細は別に配付したる「韓国教育と警察行政」なる冊子に依り知悉せられたし諸君は以上の談話に依り私立学校か穏健ならさる謬見の下に簇生し危険なる思想に依りて教育せらるゝの一端を知了すると同時に学校監督の等閑に附すへからさるを感得せられたるなるへし然り而して茲に注意すへきは私立学校の多数は前述の動機径路を依りて設立せられたるも是を以て其全部を断し得さること是なり即ち私立学校中には善良なる意味に於て教育の普及発達を図らんとするものなきにあらず日本今日の富強は教育の力に依るもの多しとは日本人自ら之を唱へ外国人亦洽く之を認むる所又韓国人にして日本に遊ぶや日本人好意を以て之を迎へ諸般の制度施設を観覧せしむると同時に学校の如きも叮嚀懇切に誘引し 御真影を奉安せる尊厳なる装置を拝せしめ或は兵式調練、撃剣、柔道等の練武をも好んて縦覧せしむ斯の如くして日本文運の進歩発達を目睹せる韓国人は一人として日本か其教育の旺盛にして且つ活気あるを口にせさるなし
如上日韓の来往年を逐ふて益頻繁を加ふるに従ひ韓国人か日本の文物に接触し或は世界の趨勢を知り文明の風潮を齎し専念国運の発展を企図するに当り教育渇仰の感想一層深く且つ滋きを加ふるは必然の結果にして韓国の教育行政たる決して易々たる業にあらす或は説をなすものあり韓人教ふへからずと然れとも世界の交通四囲の情況今日の如くなるの時に於て果たして能く韓国人の耳目を蔽ひ此民をして永く文明の風潮に遠からしめ得るや否や是■■か前来叙述したる所にして有識の士恐らくはかゝる謬見を懐くものなかるへし

写経屋の覚書-なのは「明治38(1905・光武9)年の第一次日韓協約以降に、「国を強くするには教育ニダ!」って教育熱が盛んになって、明治40(1907・光武11)年の第二次日韓協約による軍隊解散がさらにその風潮を助長したってことだね」

写経屋の覚書-フェイト「軍隊解散で職を失くした兵隊さんって、義兵になって暴動を起こすだけじゃなくて、私立学校の教師にも転職してたんだね」

写経屋の覚書-はやて「たとえて言うたら、学生運動やっとった連中が予備校教師になるようなもんやな」

写経屋の覚書-なのは「…な、なんだか微妙なたとえかも…ともかく、そういった人が教師などになって私立学校に関わっていったことが、以前に触れたように一部の私立学校で軍隊式の体操とかに熱中してた原因の一つになってるかもしれないね」

写経屋の覚書-フェイト「あ、隈本繁吉の報告書で出てた私立安興学校みたいなものだね」

甲、私立安興学校
 本校は郷校の遺趾を占め私立善遵学校と合併したる為めにや一昨夏視察せし所に比すれば校地の拡張、校舎の改修増築等設備頗る整へり、経費は郷校田■[水田]及既存寄附金より生する年収千円余を以て之に充て修業年限は予備科一学年本科三学年合せて四学年学徒約百四十名あり、儒生及自称両班の設立に係り自ら上流子弟を収容するの傾向あると共に形式上高等教育程度を以て■し居れり
 本校が排日的行動に富むは屡々耳にせし所、特に校監鄭安奭は元軍人にして日語を解し居常軍隊的操練に力め事務員金允沁は熱心なる基督教信者にして安州市場税騒擾事件の首謀者と看做され学校に爆裂弾を蔵せし嫌疑を蒙り目下逃亡中なり、安州警察署長の言に依るに本校には参考書として不良図書を蔵すること頗る多く幼年読本・東国史略各二十一部は既に没収したり、尚附近にも价川郡にも私立鳳鳴学校、私立明立学校等頗る不穏なる学校あり、現に鳳鳴学校には安重根の日記、伊藤公暗殺事由七箇条及新協約の期日等を室内に掲け説話の資に附せりと云ふ、要するに安州附近は寧辺地方と共に人気険悪にして排日の風に富み互に気脈を通して不穏の現象を呈するものゝ如く特に安興学校は寧辺なる維新学校と共に此等の不良なる風潮を代表するの観あり、

写経屋の覚書-なのは「『元軍人』『軍隊的操練』『基督教信者』『市場税騒擾事件』と興味深いキーワードがそろっているんだけど、それはまた触れていくとして、一種の教育ブームで私立学校が激増したけど、教科内容や教師のようなソフト面に問題があるってことが再確認できたかな」

写経屋の覚書-はやて「校舎設備とかのハード面でも問題があったって、余裕で想像できるんやけどね」

写経屋の覚書-なのは「ま、まぁ、そのへんについては後で出てくるかもしれないね…今回は少し早いけどきりがいいからここまでにするね」

俵学部次官演説要領(明治43年7月)(1)
俵学部次官演説要領(明治43年7月)(2)

参考エントリー
大韓帝国期のキリスト教(一)

写経屋の覚書-フェイト「今回は甲午改革以降の教育政策についてだったね」

写経屋の覚書-なのは「うん。さっそく本文を見てみるね」


写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_10
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_11
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_12-9
$写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_13-8
写経屋の覚書-明治43年7月13日俵訓示_14


   第二 韓国人の教育に対する思潮
    甲 新教育の沿革の大要
韓国は古来学問の存せる国なり即ち今日に現存せる所謂書堂若くは書房と称し漢字の肆習を事とせる一種寺子屋の如きものは到る所存せさるなし嘗て満州より帰来せる一将校に聴くに曰く満州人の漢文的智識の程度を以て韓国人と比較するに大に逕庭あるを見る即ち満州に於ては漢字を解せさるが為め筆談を以て其意を達せさること往々あるも韓国に於ては僻陬の地に於てすら斯の如き事さしママと以て漢字漢文普及の一斑を知るに足る書堂以外には郷校なるもの地方各府郡に存在し元慕聖育英の為め建設せられ其大成殿には孔夫子を祭りて春秋二季の享祀を廃せず明倫堂には士林孔孟の学を修して日夕咿唔の声を絶たす而して京城に成均館あり韓国唯一の最高学府として是等郷校の上位にあり今尚今日に存することを見るも韓国教育の淵源深きを知るへし然れとも是等は悉く所謂旧学問たる経書儒学の範囲に属し処世に疎く実用に適せす韓国人か事理に通せず浮説流言の蠢動する所以のもの此に存す
新教育の沿革に就て云へば韓国政府が始めて新教育の施設を試みたるは明治二十八年時の金宏集内閣が諸般行政の改革刷新を企てたるの時即ち金宏集内閣は日本に於ける小学校の形式を模倣して小学校令を発布し是に依りて僅少の小学校を設立せしめたりしが其内容実質の如きは素より語るに足らず而して尚一面より看過すへからさるは韓国に於ける学校か基督教宣教師の手に依てり創設せられたる事実なり即ち今を距る二拾七八年前米国人か初めて基督教伝道の緒を開くや宣教師は其伝道布教と共に韓国子弟の教育事業に着目し自己の費用を以て或は教会堂内に或は自己の監督の下に韓国人たる牧師伝道師をして各地に学校を起さしめたり是実に今日に於ける新教育制度の淵源をなすものなり然れとも以上の学校は実際に於ては其枝数及其勢力共に未た見るへきものなかりき

写経屋の覚書-はやて「以前の書堂の説明とかもしとるんやね。ほんで小学校令の発布とか宣教師の教育への進出についても書いとるけど…大要って言うとるだけあって大雑把やなぁ」

写経屋の覚書-なのは「そうだね、小学校令については、私立学校令等について(一)で少し触れられているんだよ。キリスト教の布教の歴史については、参考エントリーを読んでもらったらいいと思うんだけど…1645年に、清の人質生活を終えて北京から帰国した昭顕世子がイエズス会の信者を連れて帰った時は、結局根づかなかったんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「たしか作者が以前につくった三田渡への道でそこに触れていたよね」

写経屋の覚書-なのは「ともかく、明治28(1895)年の甲午改革で小学校令が出されて小学校も作られたけどあまりうまくいっていない、という流れは理解というか再確認できたと思うよ」

写経屋の覚書-はやて「前回に出てきた高等学校令、普通学校令、実業学校令もやっぱしそのときに出たんかな」

写経屋の覚書-なのは「えーっとね、高等学校令と普通学校令は明治39(1906・光武10)年、実業学校令は明治42(1910・隆煕3)年の発布なの」

写経屋の覚書-フェイト「どうして一度に出なかったのかな?」

写経屋の覚書-なのは「政情がグデグデで、教育政策だけに力を割く余裕も資金もなかったってのが大きいと思うけどね。とりあえず今回はここまでにするね」

俵学部次官演説要領(明治43年7月)(1)