「前回の最後で言ったとおり、今回は『駅屯土』の話だよね」
「うん。その『駅屯土』の処分についてなんだけど…」
「どないしたん?考え込んでしもて」
「いきなり『駅屯土』って言ったって、何のことか分かる人がそうそういるとは思えないの…どこから説明すればいいかな?」
「それじゃぁ、まるっきり最初からやったらどうかな?」
「そうだね。じゃ、駅屯土の前にまず駅について説明するよ。参考エントリーの『国有地の紛糾(八)』をぜひ読んでね」
「って、いきなり丸投げかい!」
「だって、作者の手元にある『朝鮮土地調査事業報告書』と、獄長が『国有地の紛糾(一)』以降で取り上げているアジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』が内容かぶっているし」
「どういうこと?」
「臨時土地調査局が大正7(1918)年11月に出した『朝鮮土地調査事業報告書』の文章の多くが、朝鮮総督府が大正9(1920)年1月に出した『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書』に転載されてるんだよ」
「だから、獄長日記のエントリーを読むほうが早いってことなんだね。でも『駅』って鉄道の停車場のことじゃないの?」
「本来は違うんだよ、フェイトちゃん。古代中国や律令制日本の交通・通信制度で、日本の大宝令の規程を例にとると、中央政府の重要・緊急の要件で使者・官吏が利用する駅制と、急がない要件や地方行政にかかわる官吏が利用する伝馬制を合わせて駅伝制っていうの。決まった距離ごとに馬を備えた駅舎を置いて、使者は駅から駅へ馬を乗り継いで移動したり、駅ごとに使者が交代してリレー形式でつないでいったりするの」
「リレー形式なぁ…あ!陸上競技の長距離リレーを駅伝いうんは、それから来とるんか!」
「うん、正解。明治時代になって、新しい通信運搬手段である鉄道が導入されたときに『駅』を鉄道停車場の意味として転用したんだよ」
「へー。そんな由来があったんだ」
「で、李朝にも『駅站の制』があって、その駅の運営管理費用を捻出するために設置されたのが駅土なの。せっかくだし『李朝時代の財政』(友邦協会)のp82から駅と駅土の説明を引用しておくね」第三節 駅土
駅とは公文書の逓伝・官物の運輸・公務をおびる官吏の往来宿泊等を便ずるために設けられた交通運輸機関で、いうまでもなく、政府の施設にかかる官衙の一つである。これまた唐制にならつたもので、新羅炤智王九年(487)、四方に郵駅を置き、有司に命じて官道を治めさせたのを、朝鮮における駅の初めとする。
駅土とは、駅の公費及び駅員の給料を支弁するために設けられた田を称し、高麗建国の初め、全国の路駅を大・中・小の三等に分け、五百四十七駅を設けて、兵部に管轄させ、駅丞の下に駅長、駅丁を置き、軍事上の公文書を伝達させ、公須田・長田・紙位田・馬田等を設けて経費の支弁に供した。
然るにその末葉に至り、駅土は権門・豪族のために占奪せられ、駅馬は私人の乱騎に供せられ、駅戸は流亡し、駅土はその大半が私田と化したのである。
李朝もまた国初、高麗朝の駅制を踏襲してその制度を定めたが、高麗朝の弊害に鑑みて、適材の駅丞を選抜任用し、駅戸の流亡者を招いて役に復させた。次いで世祖三年(1458)、全国の駅数を五百三十八とし、駅丞を「察訪」と改め、四十名の察訪を全国に配置して各駅の管理を分担させ、公須田・長田・副長田・急走田・院主田・站衙禄田等を設けて、その経費支弁に充て、それ以来、始めて駅制の完備を見るに至つた。「経国大典」に規定するところは左の通りである。
| 駅公須田 | 大路二十結 | 黄海道は二十五結を加え、平安 咸鏡二道には十結を加える。 |
| 〃 | 中路十五結 | 平安・咸鏡二道には七結を加える。 |
| 〃 | 小路 五結 | 平安・咸鏡二道には三結を加える。 |
| 駅長田 | 二結 | |
| 副長田 | 一結五十負 | |
| 急走田 | 五十負 | 緊路(交通の要衝地点)には五十負を加える。 |
| 大馬田 | 七結 | 緊路には一結を加える。 |
| 中馬田 | 五結五十負 | 緊路には五十負を加える。 |
| 小馬田 | 四結 | 緊路には五十負を加える。 |
| 院主田 | 大路一結三十五負 | |
| 〃 | 中路 九十負 | |
| 〃 | 小路 四十五負 | |
| 站衙禄田 | 五結 |
その後百三十余年を経て宣祖壬辰の役(文禄の役・1592)に遇い、人民は離散し、諸制度は弛緩したため、これらの田土は個人の私田と化し、察訪(駅長官)・駅吏はまた、駅田の名を籍りて附近の民田を掠奪して私腹を肥やし、高麗末の轍をふむことその後三百年に及び、駅制は全く廃壊した。
ここにおいて、李太王(高宗)三十二年(明治28)、駅・院・站を廃して郵逓司を置き、駅土を軍部の所属にした。次いで、度支部・宮内府・内蔵院に転属し、その後、他の屯土及び牧場土と同じく、一般国有地に編入された。
光武四年(明治33)内蔵院の調査による「全国駅土斗落賭税表」には、総面積水田二十六万一千二百斗落・旱田二十六万二千九百日耕と記されている。
「え?駅屯土やのおて駅土?」
「そこは今説明するからちょっと待ってね。結局、駅は『国有地の紛糾(八)』にもあるように廃止されて、『驛屯土管理規程』にあるように、屯土、宮庄地、陵園墓附属地といった土地と合わせて最終的には国有地になるの。で、それらの国有地を『駅屯土』って総称して、小作契約の対象にもなるの」
「小作?一般人に貸して小作料をとるってことなんだね」
「そういうこと。ちなみに『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書』と『朝鮮土地調査事業報告書』については、これ以降のエントリーでも取り上げることになると思うの」
「作者もネタの宝庫が確保できたいうて喜んどるで」
「ここまでが、李朝・大韓帝国でのざっとした流れなの。で、総督府時代になって国有地の払下げみたいな処分をやるんだけど、駅屯土もその対象に入ってくるの」
「その規程や処分について見ていくんだね」
「うん。朝鮮総督府が駅屯土の払い下げや貸与をする際の規程について見ていくんだけど、とりあえず今回はここまでにするね」






