✴️第389話:八代亜紀逝去 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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 歌手の八代亜紀(やしろあき)さんが昨年12月30日に亡くなった。73歳、先のブログで紹介した伊集院静さんと同年だった。昨年8月に膠原病と診断され、活動休止を発表していたが、急速進行性間質性肺炎のため急死したという。突然の知らせに驚いた人も多かったことだろう。

 

生い立ち

 本名は橋本明代。熊本県八代市(やつしろし、地図)の出身のため、この芸名にした。その八代市に立ち寄ったことはないが、新幹線で通りすぎたことはある。

 市は、広報やつしろ2月号で彼女の特集を行っていて、2月29日にお別れ会を主催。県も県民栄誉賞を授与するようだ。

 八代市は、第384話:南九州思い出の旅 (2023.9.21)で紹介した女性の出身地。ちなみに、その女性には八代亜紀が歌手デビューした1971年に出会った。もう半世紀も前の話だというのに、今でも胸がキュンとなる。

 八代亜紀は地元の中学卒業後、熊本のバス会社、九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務(写真左)していたが、15歳で父親の反対を押し切り上京。銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビュー。読売テレビのオーディション番組「全日本歌謡選手権」(写真右)に出場し、10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなる。その後の活躍は周知の通りである。

 その後、「なみだ恋」や「おんな港町」「舟唄」などのヒット曲を連発。1980年には「雨の慕情」で「第22回 日本レコード大賞」の大賞を受賞している。また’13年にはジャズのアルバムをリリース。近年は気鋭のミュージシャンとのコラボレーションも精力的に行い、’16年には「FUJI ROCK FESTIVAL」にも出演。ファン層をさらに広げていた。

 

エピソード

誰も知らない素顔の八代亜紀

 厚化粧のイメージがついて回っていた時期があり、ギャグのネタにされたり、嘉門達夫(現在64歳、写真)に井上陽水の「リバーサイドホテル」の替え歌で「誰も知らない素顔の八代亜紀」と歌われるなどしていたが、どうしてそのように言われたのか分からない。

 彫りの深い顔立ちをしているだけで、実際の化粧は薄い。八代はその後、化粧品のテレビCMにすっぴんで登場し、テレビ画面から嘉門に対して「ざまあ見ろ!」というセリフを発していた。八代がフジテレビ『志村けんのオレがナるニしたのヨ?』に出演した際は、「リバーサイドホテル」をこの歌詞で歌ったことがある。ビートたけしもツービートとして、「(八代は)厚化粧で、笑うとヒビが入る」などのギャグを飛ばしていた。(Wikipedia参照)

トラック野郎のアイドル

 1973年に「なみだ恋」が大ヒットした後、トラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得るようになり、「八代観音」と呼ばれる、八代の顔を模した観音の絵が描かれたトラックが出現した。

 これがきっかけとなり、1977年に当時大ヒットを飛ばしていた東映映画『トラック野郎・度胸一番星』(写真)に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として使用された。配給収入も10億9000万円を記録した。

 ③画家としても大成

 歌手活動だけに留まらず、画家としても活躍している。父親は若い頃画家志望だったこともあり、八代は幼い頃から絵画教室に通った。当時は休日に母が作ってくれた弁当を持って父と一緒に写生に出かけ、休憩がてら父のギターによる弾き語りを聞いていたという

 そして、世界最古の美術展、フランスの「ル・サロン」で1998年から5年連続入選し、ルノワールやモネらと肩を並べ、永久会員になっている。

 歌と絵について本人は、「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と評している。

 箱根・強羅に豪華別荘があり、その離れが彼女のアトリエだった。

 

 ハスキーボイス

 八代亜紀は小学校低学年の頃、地元ののど自慢大会に出て優勝を果たすほど、近所でも「歌が上手い」と評判の女の子だった。ところが、学校では「そんな大人っぽい声を出してはいけない」と言われ、コンプレックスも抱えていたという。そのため、「将来は画家になる」という気持ちのほうが強かった。

 ところが12歳の時、父がジャズシンガーであるジュリー・ロンドンのレコードを買ったところ、自身と同じくハスキーな声を持つジュリー・ロンドンの歌声の虜に。そこで歌手になる決意をしたという。

ジュリー・ロンドン/フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)

 

演歌の女王

 八代亜紀は「演歌の女王」と呼ばれる。タイミングよく、「be between読者と作る」(2月17日、朝日新聞土曜版be)で、「演歌は好きですか」というコーナーがあった。ここで八代さんは、石川さゆりに続き、好きな演歌歌手の第2位になっている

 実はこのコーナーでは2008年にも同じ質問をしている。それが、当時の結果は好きと答えた人が44%で、嫌いが56%だった。それが16年経った今回は好きが55%と、嫌いを逆転していた。

 16年前と回答者が違うので単純比較は出来ないが、「好き」の理由に情感の豊かさぬくもりが入ったことや、心が疲れた時に聴きたくなるという今回の回答結果に、好きが嫌いを上回った一つのヒントがあるのではないかと結論付けている。ただ、演歌の未来を明るいと答えた人は6%とごくわずかだった。

 そこでは、八代さんの言葉も紹介されている。

 「人生いろいろあるけれど、私はいつも楽しい!と思って生きている。悲しい歌を本当に悲しい人が歌ってたら、つらくて聞いていられなくなっちゃうでしょ」

 

舟歌 

 八代さんを「演歌の女王」へと導いた人たちがいる。作詞家の阿久悠(2007年、70歳で没、写真左)、作曲家の浜圭介(現在77歳、写真中央)、音楽プロデューサーの小西良太郎(2023年、86歳で没、写真右)の各氏である。

 八代さんは出世曲となった「しのぶ恋」のあと「愛の終着駅」「おんな港町」と女歌を出して順風満帆だったが、30歳になるころには「ジリ貧」を感じていた。そんな中、舞い込んだのが「舟唄」だった。
「舟唄」はスポーツニッポンの連載企画
「阿久悠の実践的講座」のテーマ「美空ひばり編」で阿久氏がお手本として書いたものだった。当時、文化部長だった小西氏が親友でもあった阿久さんに「八代用にどう?」と声をかけたのがきっかけだった。 
 「舟唄」(1979年)は、
「雨の慕情」「港町絶唱」(1980年)と共に阿久悠、浜圭介、竜崎孝路(現在76歳)のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めて“演歌の女王”と称された。

 「舟唄」は、八代亜紀の代表作であるが、阿久悠作詞の本曲を初めて八代が歌った時、最初のフレーズを聴いただけで「必ずヒットする」と直感したという。  

 過去に阿久と「街の灯り」(歌・堺正章)を創作して以降、作曲家として起死回生を狙っていた浜圭介が曲を付けた。 

【歌詞】音符お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な人がいい 灯はぼんやり ともりゃいい しみじみ飲めば しみじみと 想い出だけが 行き過ぎる涙がポロリと こぼれたら 歌いだすのさ 舟歌を 沖の鴎に 深酒させてョ いとしあの娘とョ 朝寝するダンチョネ 

 店には飾りが ないがいい 窓から港が 見えりゃいい はやりの歌など なくていい ときどき霧笛が 鳴ればいい ほろほろ飲めば ほろほろと 心がすすり 泣いている音符

 「お酒はぬるめの燗がいい」、「肴はあぶったイカでいい」は、お酒が飲めないと作れない、実感のこもったセリフである。しかし、当の八代亜紀は、どうやら全くの下戸だったようだ。

 なお、ここで引用されている「ダンチョネ節」は、神奈川県三浦市三崎町発祥の俗謡を起源とする歌である。「ダンチョネ」とは、「断腸の思い」「漁師の掛け声」など語源が諸説あってはっきりしない。「団長さんもね」という意味だという説もある。あの偉くて、いつも真面目に訓示を垂れて説教をする団長さんでさえもね、ということである。

 1981年に製作された映画『駅 STATION』降旗康男監督/東映)の劇中では、居酒屋で高倉健倍賞千恵子が見ている紅白で八代が歌う場面が挿入されている。

 

演歌とジャズの融合ステージ

 2013年の夏、米ニューヨークの老舗「バードランド」でのライブを成功させて帰国。演歌を封印し、本場でジャズを〝試聴〟してもらう初挑戦はNHKが取材についていたから、失敗はそのまま日本に伝わってしまう。これは賭けだった。

 ジュリー・ロンドンに憧れて歌手を目指した彼女は「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」や「ジャニー・ギター」などを熱唱。

 彼女のブルースは現地でも好評で、ゲストで駆け付けたヘレン・メリルが花を添えた。

 「演歌にとどまらずスタンダードジャズも歌う歌手という印象を位置づけできた貴重な体験」と上機嫌だった。10年後の昨年8月には「ブルーノート東京」でジャズを中心としたバースデーライブを開き、膠原病で入院する3日前の9月9日には埼玉・熊谷での「日野皓正クインテット」にゲスト出演。近年ジャズと向き合う機会が増えて「演歌とジャズの融合ステージ」が八代流だった。

 

膠原病

 彼女が晩年に患い、死に至ったとされる膠原病といえば、自分には岸洋子さんのイメージが焼き付いている。

 彼女は闘病生活を続けながら名曲「希望」(1970年)を歌い続けたが、惜しくも1992年、敗血症で57歳の生涯を閉じた。


 膠原病は、実は病名ではなく、自己免疫疾患の総称で、八代さんはそのうちの抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と、急速進行性間質性肺炎を発症し、療養を続けていた。

 皮膚筋炎は膠原病のなかで関節リウマチ、全身性エリテマトーデスに次いで患者数が多く、現在では2万人以上となっているそうだ。

 

 惜しい人を失くしたものだ。ご冥福を祈ります。合掌。