✴️第387話:伊集院静逝去 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

伊集院静との出会い

 拙ブログで「伊集院静」(2024年11月24日、73歳で没、写真)という名が登場したのは、今から約15年前、プログを始めたての頃、2009年3月29日投稿の第8話:うつに生きるである。

 それは、当時週刊文春で連載していた彼のエッセイ「二日酔い主義」

 2000年5月3日に起きた「西鉄バスハイジャック事件」(写真)について、17歳だった犯人の少年を励ますことがその主旨だったが、これは同時に、五十代から転職を繰り返し、心が折れそうになる小生にも生きる勇気を与えてくれた。

 

 その一節は、自分に言い聞かせるように、何度も何度もこのブログで紹介したものだ。

 

 「生きていれば、必ず、生きていた価値がわかる時間が訪れると、私は信じている。

  いかに生きるかという前に、まず生き続けることだ。  

 出世、名誉、権力、金…、といった類いのものなど何の価値もない。  

 肝心は生きて生き抜くことだ。  

 それはやがて誇りや品格に繋がるとも思う。(中略)   

 悔いのない人生はない。誰もが失敗し、あの時、ああしておけばよかったとか、無念の思いを背負って生きている」

 

不良中年

 ところで、『多くの人間は心の底では「不良」にあこがれている』というのが私の説で、若い男女にインタビューすると、決まって「誠実」で「まじめ」の人が結婚相手にふさわしいというが、それはあくまで表向きの答えだと思っている。

 「不良」と付き合えばだいたい最後は大やけどをして、深い心の傷を負うのが関の山と、相場は決まっているのに、それでも好きになる。

 それは「まじめ人間」の物足りなさが分かっているからである。

 石橋を叩いて渡るより、未知の世界に果敢挑戦している人間の方に憧れるのが多いことは不思議ではない。

 私が好きな不良中年(今や老人!)の双璧は、伊集院静嵐山光三郎(現在82歳、写真左)だった。それで、一時ブログのタイトルを嵐山光三郎の著書『「不良中年」は楽しい』(写真右)にしていた時期がある。

 

 伊集院静は云わずと知れた、誰もがうらやむ絶世の美女、「夏目雅子」(1985年、27歳で没、写真左)と「篠ひろ子」(現在75歳、写真右)を虜にした男である。

 この男のどこがいいのだろうか。その著書「兎が笑っている」(1999年、文藝春秋、写真)では、彼のギャンブル三昧と二日酔いの日々が綴られている。

 特に傑作なくだりがここ。少し長くなるけど、我慢をして下さい。

 

 「目を覚ましたらひさしぶりに天井がなかった。蒼空が広がっている。コートのポケットのあたりで何か動く気配がする。顔をあげると、子供がひとり私のコートを叩いていた。-誰じゃ、こいつは。「マコト君、こっちに来なさい」女の声がした。少年の耳が動く。大きな耳をした子供だ。(略)「マコト君、なにしてるの。こっちへ来なさい」女の声が急に甲高くなった。少年はそれでもじっと私の顔を覗いている。「マコト」とうとう呼び捨てだ。少年が走り出した。うしろ姿を眼で追うと、ブランコのところに女が二人立って、少女がひとりブランコにつかまっている。 マコト君はママのところへ戻った。するとママはいきなりマコト君の手をつかんで、「どうしてそんな気持ち悪いことをするのよ、あんたは」と手の甲をピシャリッとたたいた。-気持ち悪いって、どういう意味だ。(中略)座りなおした。あれ、靴がない。周囲を探したが見当たらない。ブランコのほうではまだ私を睨んでいる。マコト君までが見てる。-怪しいもんじゃないってば。それより靴だ。私はずっと靴下で歩いとったのか…」

 

 不良中年の共通項は必ずしも「ギャンブラー」とか「飲んだくれ」というわけではない。また、間違っても不良=非行ではない。不良と非行は違う。私見で不良の共通項は次の3点である。  

1.反権力・反権威主義者である。もっとハードルを下げたとしても、非権力・非権威主義者である。

2.ゴルフウェアやトレーパンで門外を闊歩しない。いくら歳をとったからと言っても、おしゃれには最大の気を使う。

3.異端児のため人生の修羅場をくぐり抜けている。それがゆえに人にはやさしい。特に異性にやさしい。

 これで男も女もグッとくる。

 

最後の無頼派

 伊集院静は「最後の無頼派」と称される。数億もスッたと言われるほどのギャンブル好き。普通だったら、お天道様の明るい内は歩いていられない。

 彼は「無頼派」の定義について「無頼のススメ」の巻頭で述べている。

 

多くの人に支えられた人生

 そんな彼だが、多くの人に支えられた人生だったのは、彼が「人たらし」だったからだろう。

 そんなことを象徴している著書が「なぎさホテル」(2011年、小学館、写真左)である。

 これは、20代後半に広告制作会社を辞めた後、7年間(28歳~34歳)にわたって神奈川県・逗子市にある洋館式ホテル「逗子なぎさホテル」(写真右)に逗留し続けた当時の経験を、自伝的随想録として綴ったものだ。
 
 瀟洒な木造二階建ての逗子なぎさホテルは、1926年(大正15年)に湘南初の洋館式ホテルとして建てられたもので、1989年(平成元年)にその役目を終え、63年間の幕を閉じた。現在、その地はファミリーレストラン「夢庵」になっている。ホテルの場所を確認しておこう。

 そして、彼の辿ってきた経路を年表にしてみた。
  作家としての未来はおろか明日さえ見えない日々をそのホテルに暮らしたのは28歳から34歳のときだった。

 広告制作会社を辞め、妻子も東京も捨てたある冬の午後、どこに行こうか迷っていたところ、関東の海が見たくなり、JR横須賀線に乗り、降り立ったところが神奈川県・逗子市(地図)だった。

 


 

 駅から歩いて海岸沿いのレストランに行き、ビールを片手にぼんやり海を見ていたら「昼間のビールは格別でしょう」と声をかけてくる人がいた。それが、なぎさホテルI支配人との運命的な出会いの始まりだった。 
 そこで一泊3000円という格安な料金の部屋に泊まり、その支払いも滞りながら家族同様の扱いを受けて7年もの歳月をここで過ごすことになる。 
 I支配人は彼にこうも言っていた。 
 〈お金なんていいんですよ〉〈あなた一人くらい何とかなります〉〈あせって仕事なんかしちゃいけません〉 
 こんなことを言ってもらえる人が世の中に何人いるのだろうか。I支配人やY女史(のち支配人となる)は彼の人間的魅力と才能の豊かさに気付いていたのだろう。
 この間、作詞家及び作家としてデビューを果たした彼は、女優として絶頂期のM子こと夏目雅子と7年間の交際の末結婚、ホテルを出て鎌倉で生活を始めるが、小説では多くは語られていない。 
 その1年後、彼女を白血病で失い、再び失意の底を這い回ることになる。
 彼はここで多くの人の「情」に支えられて生きてきた。先妻の慰謝料や生活費の支払い、アルコール依存症やギャンブル依存症で生活は破たんしていた。それでも彼を支えてくれる人たちがいた。小説なので誇大化されている部分もあるのだろうが、驚くべき人生である。

 

最後の連載記事

 昨年の10月、行きつけの喫茶店で10月12日発売(10月19号)の週刊文春を読んでいたら、たまたま伊集院静の連載の人生相談、「悩みが花」の最終回だった。

 それが、「つまらない質問」とか「とっと辞めたい」など、これが最終回の挨拶かと思うような、捨て台詞だったのに驚いた。自分は彼がガンを患っていることは知っていたので、良心的に解釈して、体調が相当悪いのだろうと思ったが、随分読者から反感を買ったようだ。

 ところが、『作家・伊集院静の人生相談「悩むが花」から傑作10選一挙紹介! 『女と男の品格。』発売記念』では、スカッとするようないいことを言っている。

 上記には載っていないが、パートナーに飽きるのが怖くて結婚に踏み切れない女性の質問に対する回答も抱腹絶倒だった。


 君ね。大好物の食べ物だって、年に一、二度しか行けない高級レストランの名物料理だって、三日も四日も同じものを食べてりゃ、誰だって飽きるでしょう。ましてや五年、十年と同じ相手と居て、飽きないわけがないでしょう。バカなことを訊くんじゃないよ。 
 わしは仲の良い後輩で、見所があり、大人の男として、ちゃんと生きて欲しい仲間で、そいつが独身だったら、必ず言うの。 
 「おまえさんも結婚を一度せにゃイカンヨ」 
 「一人前の男になりたかったら、俺たちが結婚して辛い、いやな思いをしたことを、おまえさん一人がしないで済むというのは絶対に許されないから」

 

これは「女と男の品格」(文春文庫、2020.2.5発売、写真)などに掲載されている。

 それから1か月後の11月24日、肝内胆管ガンというあまり聞きなれない病気で他界した。

 彼は当時高校生だった弟を海難事故で、二番目の妻・夏目雅子をガンで亡くした。多くの近親者の死を目の前にしたが、死生感については、先の「無頼のススメ」で、こんなことを言っている。

 

 「一つ言えることは、そのときは分からなくても、どんな哀しみにも終りはあるということ。生き続けてさえいれば時間が解決してくれる。時間がクスリという言葉はほんとうです」

 

 自分の死を目の前にしても、淡々としていたのだろうか。

 

 ご冥福をお祈りします。合掌。