✴️第390話:昭和の時代は輝いていたか 音楽編(その1) | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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 人は記憶が薄れるものだから、昔は良かったと思いがちである。それは仕方がない。人の脳はそういう仕組みになっているからである。しかし、やたらと昭和の時代を崇める風潮にはときどき「おや?」と思うことがある。

 

音楽では昭和は輝いていた

 音楽の世界は特に昭和ノスタルジーが強い。現在放映中のBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」(画像)を見ればそれがよく分かる。

 音楽の位置づけは昭和の時代と大きく変わった。これは、日本だけではない世界的な傾向だ。世代を超えた音楽はほとんど消滅するとともに、曲の流行は一過性のものになった。

 一家団欒の象徴だったNHK紅白歌合戦(画像)も今や昔。1963年には81.4%を記録したおばけ視聴率だったが、昨年(2023年)12月31日にNHK総合で放送された「第74回NHK紅白歌合戦」の平均視聴率(世帯)は1部(午後7時20分から)29.0%(関東地区、ビデオリサーチ調べ・以下同)、2部(午後9時から)31.9%だった。第1部は初めて30%の大台を割り、2部の31.9%も、2部制になった1989年以降、歴代ワーストとなった。

 

世界的にヒットした日本の曲

 昭和の時代、海外でもこんな曲がヒットしたことがある。

坂本九/上を向いて歩こう(1961年)

 1961年に坂本九(1985年、43歳、航空機事故で没、写真右)が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカで「スキヤキ・ソング」とタイトルを変え、ビルボードのウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てたが、現在まで日本人歌手で全米チャートを制したのは坂本九ただ1人である。

 イントロで使っている、ヴィブラフォン(写真左)が特長で、出足ですぐにこの曲だと分かる。2011年7月に公開されたアニメ映画「コクリコ坂から」(写真右)の挿入歌として採用され、やはり同年に起こった東日本大震災後にコマーシャルメッセージにも使われた。

 

 永六輔(2016年、83歳で没、写真左)と作曲家の中村八大(1992年、61歳で没、写真中央)は「六八コンビ」と呼ばれ、1959年 - 1966年にかけてにより数々のヒット曲を飛ばした。彼を加えて、「六八九トリオ」とも呼ばれた。

 ところが好事魔多し。1985年8月12日午後6時56分に墜落した羽田発伊丹行きJL123便(ボーイング747SR-100型機)には、乗客509人と乗員15人の524人が乗り、乗客乗員520人が亡くなったが、その中の一人が坂本九だった。


 千昌夫/北国の春(1977年)

 いではく:作詞(現在82歳、写真左)遠藤実:作曲(2008年、76歳で没、写真中央)千昌夫:歌(現在76歳、写真右)「北国の春」は、中国では「北国之春」の題でヒットし、1988年に「過去10年間に最も親しまれた外国曲」に選ばれたこともある。台湾では、「榕樹下」、「青空萬里」など5つの訳詞があり、香港では「故郷的雨」の題で広東語で歌われる。 


 
テレサ・テンは、「我和称」として歌った。タイ語でも、「コーイ・ワンチャ・ダイ・チュー」の名でヒット。他にモンゴル、インド、ベトナム、フィリピン、ハワイ、ブラジルなどに広がっている。「15億人の愛唱曲となり、世界最大のヒット曲」
長田暁二著「日本の愛唱歌」より)とまで聞いた時には驚いたものだ。ビートルズではなかったのか。
  そして、勘違いはもう一つあって、イメージした
地域も違っていた。てっきり北海道か東北だと思っていた。作詞のいではくは長野県南牧村、作曲の遠藤実は現在の新潟市、千昌夫は岩手県陸前高田市と、いずれも北国の出身である。新聞によると、この3人に共通するのは少年時代が「冬の時代」だったことで、貧しい家庭に育ち、「しばれる冬」を体験した。だが、答えは、いではく氏の出身地、いわゆる「東信」に当たる、長野県南佐久郡南牧村だった。(地図)

 
谷村新司/昴(スバル)(1980年) 

 谷村新司(2023年、74歳で没、写真中央)はご存知、元「アリス」のメンバー。急性腸炎がこじれ、昨年逝去した。1971年から10年間、解散をするまで、堀内孝雄(現在74歳、写真左)と矢沢透(現在75歳、写真右)の3人でメンバーを組んでヒットを飛ばした。


 彼と中国との関わりは、1981年北京・工人体育館にて日中共同コンサート
「ハンド・イン・ハンド北京」を開催。中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、ゴダイゴに次ぐものだが、単独公演としてはアリスが初めてだった。この公演が若手ミュージシャンに影響を与え、中国にポップスが根付く礎となった。またソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなったという。

 2010年の上海万博では4/30開会式が行われたが、谷村新司は万博側からアジア全域で大ヒットした「昴」の歌唱を依頼され、日本で上海万博の「イメージ大使」を務めるほか、上海音楽学院で教授を務め、普段から日中の懸け橋として活動している本人は、「光栄なこと」と快諾した。
 現駐日大使の
呉江浩(現在60歳、写真)は「中国で日本語のできる人口は105万人です。この105万人のうち、『昴』が歌えない人はほとんどいません。また「昴」の中国語版は日本語のできない人でも歌えます。絶大な影響力」と発言している。(Wikipedia参照

開会式での谷村新司の「昴」熱唱

 そして、もう一つ忘れてはならない曲がある。インドネシアでは「第二の国歌」と呼ばれるほど親しまれているこの名曲。
 
五輪真弓/心の友(1982年)

 「心の友」は、五輪真弓(現在73歳、写真)が1982年に発表したアルバム『潮騒』(画像)に収録された楽曲である。

 同曲はシングルカットされず、テレビ・ラジオでの楽曲披露がなかったため日本では一般に知られることがなかったが、1980年代中頃にインドネシアで普及し、第2の国歌と言われるほど世代を超えて日本語で歌い継がれている。
 これは、1983年に五輪真弓のコンサートで同曲を聴き感銘を受けたインドネシアのラジオ関係者が、アルバムを持ち帰り現地で放送したのをきっかけに広まり、1985年頃には大ヒット曲となった。その後、中学校の音楽の授業で課題曲にもなった。そして、2004年スマトラ沖地震で被災者たちが口ずさみ、心の支えになったと言われる。
 最近では、2023年6月、
天皇・皇后の即位後初となる国際親善訪問としてインドネシアに国賓訪問した際、6月19日の午後にボゴール宮殿で開かれたジョコ大統領夫妻主催の昼食会において、インドネシア伝統の弦楽器ササンドゥによる演奏が披露された。
(Wikipedia参照

 続く。