★第245話:楽器ではない音のある曲【その1】「自然の音」編 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

 どんな音でも音楽の一部になれる。前々作★第243話:ルロイ・アンダーソンの冗談音楽⁉ では、タイプライター(タイプライター)、紙やすり(サンド・ペーパー・バレー)を使った音楽を紹介した。
 
  今回は、自然の音を採り入れた曲を特集してみた。

 

潮騒・川のせせらぎ、森林浴 
フランク・チャックスフィールド楽団/引き潮 (1954年)
 
フランク・チャックスフィールド(1995年、81歳で没、写真)は、イギリス生まれの音楽家。

 1954年、アメリカのハープ奏者の
ロバート・マクスウェル作曲の「引き潮」(Ebb Tide、1953年)を、冒頭と最後に浜辺の渚の音とかもめの鳴き声を入れて、独自のストリング・アレンジを施して発売。英デッカのffrrの優秀録音も手伝い、全英、全米でヒットチャートの第1位となる。作詞家カール・シグマンが歌詞を後からつけ、歌曲としてもスタンダード化しているが、インストゥルメンタルでのムード音楽定番曲として広く知られる。

カルメン・マキ/時には母のない子のように(1969年)
 
「時には母のない子のように」は、寺山修司(1983年、47歳で没、写真左)が主宰する劇団「天井桟敷」に新人女優として入団したカルメン・マキ(現在70歳、写真右)のデビュー曲として企画され、リリースされた。作詞は寺山が手掛け、寺山の秘書を務めていた田中未知が作曲を手掛けている。

 当時、17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼ぶ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラーの大ヒットを飛ばし、本曲で、1969年の第20回NHK紅白歌合戦に出場を果たした。作詞の寺山は、本作を作るに際してゴスペルソングとして有名なSometimes I feel like a motherless chil(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得たとされている。
 イントロとエンディングに流れる波の音は、録音スタッフが神奈川県・
湘南の海岸で録音したものが用いられている。

オーティス・レデイング/ドッグ・オブ・ザ・ベイ(1968年)
 
オーティス・レイ・レディング(1967年、26歳で没、写真)は、アメリカのミュージシャン。独特の歌唱法でソウルに多大な影響を与えた。1967年夏、当時カリフォルニア州サウサリートのボートハウスに滞在していたオーティスは、プロデューサーだったスティーヴ・クロッパーと共にこの曲を作詞作曲し、12月6日と12月7日にメンフィスでこの曲の録音を完了させた 。しかしその3日後の12月10日、オーティスの自家用飛行機が、次の公演地であるウィスコンシン州マディソンに向かう途中、濃霧で滑走路を見失い近くの凍結したモノナ湖 スコーベイエリアに墜落。オーティスと、バックバンドバーケイズのメンバー、スタッフ、パイロットの4人が死亡した。盟友のジェームズ・ブラウンは、自家用飛行機で移動する事の危惧を訴えていたという。


 事故の3日前に録音された
「ドック・オブ・ベイ」は、翌年のビルボードで、1968年3月16日に週間ランキング第1位を獲得し、オーティスにとって唯一のビルボード誌週間ランキング第1位の曲となった。それまでの曲調とは違うため、周りは戸惑っていたが、本人がシングル化をレコーディング中に望んでおり、「俺の初めてのナンバー・ワン・ソングになるぜ」と語っていたという。

ボニーM/バビロンの河 (1978年)

 ミュンヘンサウンドとは、ユーロビートやハイエナジーが流行る前の70年代から80年代にかけて流行った当時の西ドイツ、ミュンヘン発のディスコ・サウンド。その中でも、ボニーMは、1975年から1988年までの間に38曲のトップ10、ドイツで15曲のナンバーワン、イギリスで5曲のナンバーワンを記録する未曾有の成功を収める人気グループだった。服装が奇抜だったため、きわもの扱いされる傾向にあるが、十分な実力派である。(写真)


 
バビロンの河は、メロディアンズというジャマイカ人のグループが歌ったレゲエの名曲がオリジナルだが、実は重たいテーマの曲だ。 
 紀元前597年、バビロニア・ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王・エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。これを
バビロン捕囚(画像)というが、その地で故郷を懐かしみシオン(イスラエル)が見えるバビロンの河で嘆き悲しみかつ故郷に帰る執念を込めて歌った歌である。


姫神/NHKテレビ番組「海道を行く~ぐるっと海道3万キロ」のテーマ(1985年)

 「ぐるっと海道3万キロ」は1985年4月1日から1988年3月までNHKで放送した紀行番組。北海道から沖縄までの海岸線を一筆書きで一周すると、その距離は3万3千キロ。その海岸線をたどって、そこで繰りひろげられる人々の暮らしを3年間、103回にわたって描いた。オープニングテーマは当時話題を呼び、姫神サウンドを世に広く知らしめた。ナレーターのNHKアナウンサー・国井雅比古の声もとても印象的だった。

 姫神(ひめかみ)は、日本のミュージシャン。ユニット名は、岩手県盛岡市にある姫神山に由来する。シンセサイザー・ミュージックの先駆者、星吉昭(2004年、58歳で没、写真右)が1980年、星吉昭(キーボード)、佐藤将展(ドラムス)、大久保正人(ギター)、伊藤英彦(ベース)の4名で「姫神せんせいしょん」を結成。1981年のデビュー曲、「奥の細道」がヒット。1984年にはユニット名を「姫神」に改め、拠点を岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)におく。1985年NHK紀行番組「ぐるっと海道3万キロ」のテーマ曲・挿入曲、1997年TBS系TV紀行番組「神々の詩」のテーマ曲で大きな反響を呼ぶ。この頃より、女性地声合唱団の歌声を取り入れている。彼の死後は息子の星吉紀に引き継がれ、新生「姫神」として現在も活躍し岩手県を活動拠点とし、東北地方の民謡や民族音楽に影響を受けた楽曲を作り続けている。こぶし(メリスマ)を織り込んだメロディーラインが大きな特徴。シンセサイザーを用いたインストゥルメンタルを中心に製作していたが、1990年代後半以降は、姫神ヴォイスなどの歌声や生楽器を取り入れた楽曲も多く作られている。

 

雷・風雨
カスケーズ/悲しき雨音・悲しき北風 (1962年)
 
カスケーズ (The Cascades)はアメリカのバンド。海軍を除隊後「The Thundernotes」が結成され、ドナ・レコードから1961年にデビューする。その後バンド名を「カスケーズ」に改名、1962年にヴァリアント・レコードから「悲しいわけは(There's A Reason)」 でデビューする。1962年11月に発売した「悲しき雨音」(Rhythm of the Rain)が翌年3月に全米3位を記録し、日本でも大ヒットする。1979年のイギリス映画「さらば青春の光」においてサウンドトラックで使用され、そのサウンドトラックアルバムにも収録された。曲のアレンジはチェレスタ(写真)の独特な使い方を特徴にしている。「悲しき北風」(The Last Leaf)は、そのレコードのB面。

 恋人と離別した男が雨に濡れながら「どこで道を誤ったのか、別れた今でも彼女がいとおしくて仕方ない。雨よもう降らないでおくれ」と切々と歌うバラードである。

ウォーカーブラザーズ/ウォーキン・イン・ザ・レイン

 ウォーカー・ブラザーズ(The Walker Brothers) は、英国のグループとよく間違われるが、れっきとしたアメリカ人によるグループである。しかし本国よりも英国での人気の方が高かったのも事実で、メンバーのハンサムなルックスも手伝って一時はビートルズに匹敵する人気を誇った。クリス・ケナーのカバー『ダンス天国』や、フランキー・ヴァリのカバー『太陽はもう輝かない』のヒットで知られる。
 もちろん、ブラザーズと言っても兄弟ではなく、
スコット・ウォーカージョン・ウォーカーゲイリー・ウォーカー(ドラム)の3人。1965年に結成、1967年に解散するが、1968年に日本公演のためにだけ再結成された。

五輪真弓/リバイバル (1981年)
 
五輪真弓(現在70歳、写真)は、日本の女性シンガーソングライター。「リバイバル」は、1981年9月21日に発売された彼女の20枚目のシングル。1981年末の『第32回NHK紅白歌合戦』で2年連続2回目の出場を果たし、同曲を披露した。


 1972年10月、CBS・ソニーより、アルバム『五輪真弓/少女』とシングル「少女」の同時発売でデビュー。最初のアルバム『五輪真弓/少女』は、1971年夏に2ヵ月間をかけて、ロサンゼルスのクリスタル・サウンド・スタジオでレコーディングされた。このレコーディングには五輪のデモテープを聴いて感銘を受けた
キャロル・キングチャールズ・ラーキーも参加し、ストリングスの中ではデヴィッド・キャンベルがヴィオラを弾いている。CBSソニーはこの新人シンガーソングライターに同じCBSソニー所属の「たくろうと並ぶ日本フォーク界の最重要人物!」とキャッチフレーズを付け、吉田拓郎と同様に個人レーベルを持たせ「UMI」を作り、期待の大きさを示した。アルバムはオリコンでは最高6位にランク。いわゆる海外レコーディングを商業的に成功させた先駆者としても日本の音楽界に大きな影響を与え、その後さまざまな歌手やミュージシャンたちがそれに追随した。マスメディアでは「和製キャロル・キング」と謳われ、日本女性シンガーソングライターの草分けと呼ばれた。
 1980年にリリースされたシングル
「恋人よ」は当初はB面(カップリング)用の曲であったが、歌入れの後にその出来の素晴らしさにA面として発売されることになった。「恋人よ」は大ヒット、彼女の代表曲となり、同年の第22回日本レコード大賞金賞を受賞した。その後美空ひばりや淡谷のり子の重要なステージ・レパートリーにもなり、後世へと伝えられる曲となった。
 また、1980年代には東南アジアでも
「心の友」を中心にヒットが多く生まれた。「恋人よ」は現在も中国・韓国・ベトナムなど東南アジア各国で根強い人気を博していて、インドネシアでは「心の友」は知らない人がいないくらい有名な曲である。

続く。(Wikipedia参照)