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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
〒417-0842 静岡県富士市三新田9-20TEL 0545-32-0662   
生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

小学生の学年末2月の学習する単元はどの学年も「式を作る」ことが主題となっています。

等式を作ることは中学の数学につながります。

数学のための基本づくりとも言えます。

 

各学年の学習内容は次のようになります。

 

小学2年生「たし算とひき算」:文章問題を図を使って、たし算とひき算で解きます。

等式を意識するようにします。

 

小学3年生「□を使った式」:□を使ったたし算・ひき算、かけ算・わり算の式を作る。

文章問題を□を使った等式を作り、□を求めます。

 

小学4年生「ともなって変わる量」:ともなって変わる2つの量を□と〇で表して等式を作ります。

□、〇に代入して値も求めます。

 

小学5年生「割合を使った問題」:比べられる量÷もとにする量=割合の式をもとに各値を式の変形をして求めます。

 

等式では3つの値のうち2つが分かっていて残りの値を求める。

これが文章問題の基本のパターンです。

 

小学2年生の最後の学習に「たすのかな、ひくのかな」という単元があります。

この単元から文章問題が本格的に始まります。

〇+△=□ という式が基本の式となります。

 

この〇、△、□のうちの2つが分かっていて残り1つを出すというのが文章問題となっています。

この式を作るということが小学2年生の最後の時期ではまだ難しいところもあります。

また、小学生は答えをすぐ出したがる傾向があります。

 

そこで、すぐに「たすのか、ひくのか」

と聞いて答えを出そうとします。

または、たす、ひく、のどちらかを使ってとりあえず答えを出そうとします。

 

文章問題の意味は分かっていないけれども答えを出そうとします。

出した答えが合っていた。

ということで、できたということにしてしまうことも多くあります。

 

そのような場合は後になって文章問題が分からない。

解けない。

という状況になります。

ただ、小学2年生の最後の時期では、まだ文章問題の意味が分からなくても仕方がないという時期でもあります。

 

「こんなことも分からないの」

「こんな簡単なことも」

と 思ってしまうこともあるでしょう。

でも、それを口に出すことはタブーです。

 

小学2年生でも意味が分かれば計算は簡単なので、すぐ解けるような問題です。

その意味をじっくり考えて理解しているという段階かもしれません。

上の学年なるとたし算、ひき算ではなく、かけ算、わり算の式が加わります。

 

道のり=速さ×時間、速さ=道のり÷時間、

割合=比べる量÷もとにする量

などの文章問題を

学習していくことになります。

 

式を作って、計算をして、答えを出す。

これが算数、数学ができるようになる一歩です。

 

2024/02/16

 

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

思い通りにならなくて

計画が進まない。

目標が達成できない。

どうしたらよいのかも分からない。

気持ちだけが焦って

気持ちだけが沈んでいく。

 

そんな時は心の中は真っ暗で何も見えない。

何をすればよいのかも分からない。

 

そんな時は心の中で言ってみる。

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

何も考えずに言ってみる。

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

心の中をこれらの言葉でいっぱいにする。

 

解決方法が分からない。

どうしたらいいのか分からない。

 

何もできない。

でも、何かしなければ。

でも、何をしたらよいのか分からない。

 

そんな時に心の中で言ってみる。

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

何も考えずに言ってみる。

心の中で繰り返す。

時には声に出して言ってみる。

 

何もできないから。

何をしてよいのか分からないから。

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

そんな言葉を繰り返すしかできない。

そのくらいしかできない。

だから、そのくらいでもしてみよう。

 

そんな言葉を繰り返して頭の中をいっぱいにする。

そんな言葉で体中をいっぱいにする。

 

小さな不安が大きな不安になる前に

その不安を言葉でおおいつくす。

 

「ナントカシナケレバ」「ナントカシナケレバ」

「ナントカシヨウ」「ナントカシヨウ」

 

不安を小さくできるかもしれない。

何かのヒントを与えてくれるかもしれない。

何もならないかもしれない。

 

でも、言葉を繰り返している時は心の中の不安は顔を出さない。

 

 

2024/02/03

 

 

相手にとって都合が良いこと=自分にとって都合が良いこと。

いろいろ経験して、今はそのように思っています。

 

人間、楽をしたい。

少しでも楽になる道筋があれば、その道筋に沿って歩きたい。

そう思うのが当然。

と、思う。

 

自分にとって都合が良いようにしたい。

そのために相手に自分に合わせてもらいたい。

そこで相手の要望を変えてもらう。

 

自分の都合の良いようになる。

そうなれば自分は楽になる。

 

でも、なかなかそうならないことが多い。

 

たとえば、休日返上で仕事をすることになる。

前日に予定を立ててみると1日仕事ではなく、午前中で終わりそうだ。

これなら午後は休みになりそうだ。

そう思って少し喜ぶ。

 

そこへ取引先から電話がある。

明日の午後に商談したい。

午後は休みになれると思っていたのに。

ダメになるのか。

 

自分は明日の午後は休みにしたい。

心の中で声がする。

 

そこで、相手にできれば明日の午前中に会うように変更できないかと頼む。

すると相手が午前中でもよいと変更してくれる。

良かったと心の声がする。

 

当日になって、仕事をしていると急に電話がかかってくる。

突然ですけど、今日の午後どうしても商談したいので都合をつけてください。

変えることはできないので、午後も仕事をすることになる。

 

こんなことになるなら、前日の商談も午後にすればよかった。

相手も午後の方がよかっただろうに。

無理に午前にしてもらう必要はなかった。

相手に対して悪かったという思いが起こる。

 

こんな経験を何回か繰り返す。

すると結論が出る。

 

自分の都合に合わせても、結局は自分が楽をしたい。

という理由の場合は自分の都合の良いようにはならない。

 

そんな結論により、自分の都合は考えず、相手の都合を優先すること。

これがいちばんだ。

ということが分かった。

 

いつも相手のことを優先する。

このことがいちばん良いということになる。

 

流れに逆らって自分の気持ちをぶつけても、結局は流れに呑み込まれて流されるだけ。

それなら始めから流れに乗っていくほうが良い。

 

自分にとって都合の良いことのために無理を押し通してはならない。

常に相手の都合を優先する気持ちを持たなければならない。

 

相手にとって都合が良いこと=自分にとって都合が良いこと。

このように今は思っている。

 

 

2024/01/25

 

 

 

昔、東京の個別進学塾で生徒を教えていたことがあります。

そこを辞めることにした時に室長に辞めることは担当の生徒には言わないでおいてくれと言われました。

 

自分は担当していた生徒には事前に話しておいた方が良いと思っていました。

しかし、室長にそのように言われたので、最後の授業の時まで辞めることは言わないでいました。

 

最後の授業の終了時に生徒には辞めることを言いました。

そして、教室を出ました。

 

その後、室長から

「先生が担当していた中学生の女の子が先生の辞めることを知って大泣きされて困った。」

というのを聞きました。

 

このことは自分にとっては勲章の一つです。

生徒には悪いことをしたな。

という思いがあります。

でも、もうひとつ、そんなに頼ってくれていたのか

という思いで、喜びも感じました。

うれしかったです。

 

こういうことが働きがいと言えるのかもしれません。

その生徒にとっては、自分は信頼できる先生だったのかもしれません。

ありがたいことです。

 

慕ってくれていたのかもしれません。

うれしいことです。

働きがいというのはこういうことなのかもしれません。

 

これからも頑張っていこう。

と思える。

そんな出来事でした。

 

それが今でも頭に残っています。

それが一つの糧になっているのかもしれません。

 

そういうことが働いていくうちに多く体の中に残っていく。

そのひとつひとつが働きがいの種になります。

種はいつか花を咲かせます。

どんな花が咲くのかは分かりませんが。

 

 2024/01/16

 

 

以前、仕事においてドリルで物に穴を開ける時に上司に言われた。

「ドリルが物に対して垂直になっていないから直すように。」

自分では垂直にドリルを入れていたつもりだった。

けれど、どうもそうではないらしい。

 

フライパンで炒め物をしている時に

「フライパンがコンロの真ん中になっていない。」

と注意された。

自分では当然、フライパンはコンロのちょうど真ん中になっていると思っていた。

 

このように、自分では正しいと思っていることが往々にして間違っていることがある。

ということは自覚しておかなければならない。

 

自分がいつも正しいと思うということは、はなはだ傲慢である。

自分はこう思うけれど、これは正しいのか。

どうなのか。

そのように物事を考えてみる。

という顕著な姿勢が必要だろう。

 

自分が正しいと思って行動をする。

しかし、間違っていることの方が多いかもしれない。

 

絵画を見る。

抽象画において、ひょっとするとこの画家は実際に頭の中でこのようにものが見えていたのではないかと思うことがある。

 

本当はデッサンがしっかりできて、しっかりした絵が描けて、その後の形が抽象画になっているのだろうけれど。

 

へそ曲がりという言葉がある。

へそが中心にないこと。

つまり、人と変わっている。

ということを意味する。

 

これなど、本人は自分のへそは中心にあると思っているのではないだろうか。

周りから見れば、へそは中心にないように見える。

けれども、本人は自分のへそは中心にある。

そのように見えているのだ。

 

周りの人と同じものを見ても見えるものが違う。

そうなれば意見も変わってくる。

 

周りのものから見ると、へそが曲がっているということになる。

 

 

 

2024/01/11

 

 

缶詰のブルトップが開かない。

スーパーの肉などを入れる薄いビニール袋の口が開かない。

ペットボトルのキャップが開けられない。

ライターの火を点けられない。

雨戸の開け閉めができない。

…など。

 

これらは父母が年を取ってから、できないと言ってきたこと。

代わって自分がしたこと。

 

その時は、

「こんなこともできないのか。」

と思っていた。

 

「こんなこともできないほど年を取ってしまったんだな。」

と思うことはなかった。

今なら分かる。理解できる。

できないことが。

 

「こんなこともできないくらい年を取ってしまったんだな。」

そう思って相手のことを気遣ってやらなければいけない。

と今ならば思う。

 

「こんなこともできなくなってしまったんだ。」

と思ってあげることができる。

 

「こんなこともできない。」

と、同じ思いになってあげることができる。

でも、その当時はできなかった 。

 

「開けられない。」

その状況、その年齢になってみないと分からない。

 

そういえば、父がそんなこと言っていた。

母がそんなことを言っていた。

 

そんなことを思う年齢になっている。

同じ状況にならなければ分からない。

年を取ってみないと分からない。

若くないと分からない。

見て感じないと分からない。

 

年を取って手の力がなくなると物が開けにくくなる。

何か援助が必要になってくる。

若ければそれは感じない。

 

缶詰も缶切りを使わなくても開けられるようになっている。

多くがプルトップで開けるようになっている。

そのプルトップを開けるのにも力がいる。

そのプルトップが開けられなくなる。

 

いろいろな面で年を取ってこないと分からないことが分かってくる。

そのことと比例して改良しなければならないと思うことが多くある。

それが年を取って分かる。

年を取らなければ分からない。

 

若い時のことならまだ分かる。

若い時は通過してきたから。

時代は違うけれど。

 

年を取ってからのことは分からない。

先のことだから。

 

その時々に見えるものしか認識しない。

自分の見える狭い範囲のことしか分からない。

感じることができない。

 

大成する人は10年後など先のことが自分の目で見たように感じることができるのだろう。

だから、その先の見たことを考えて何かできる。

そういう人だ。

 

自分の周りだけ、狭い範囲だけしか見ることができない。

それも今、現在だけ、自分の年齢でしか見れない。

だから、凡人。

 

 

 

2023/12/24

 

 

人間の体は異物が入ってくると、それを排除するようになっている。

 

それは人間が古来より持っている自己防衛能力といえる。

体の中に異物が入ってきた場合、それを何らかの方法で排除しなければ身体自体の存在が危険にさらされる。

 

そこで、体に害のあるもの。

または、今までと異なったものなどが体内に入ってきた場合、それを排除するようになっている。

 

嘔吐、下痢などが排除のために起こる。

それらによって体の外に異物を出すようにシステムされている。

人間の体はそのようになっている。

それは目に見える現象以外にも起こる。

 

人間の意志、思考、感情など目に見えないメンタルな部分にも同様のことが起こる。

異人種、異文化など。

そういうものが急に入ってきたならば、排除しようとする。

 

心の準備ができていない。

平穏が乱される。

今までの慣習通りではなくなる。

 

そこで排除。

そのような意識が湧き上がる。

起きる。

 

それは古来より延々と受け継がれてきた。

 

大きさは関係ない。

異なったものが侵入する。

 

それが良いこともあるが、悪いこともある。

平穏からの脱却は進化につながる。

 

進化は既定路線の延長線上にはない。

進化には今まで通りではない何か別のことが必要だ。

 

人類の進化は突然変異によるもの。

今までと違ったことにより起こった。

 

石ノ森章太郎の漫画にあった。

猿人たちの中に体毛がない子供が生まれた。

体毛で覆われた猿人たちはその子供を始末しようとする。

しかし、必要とされるものは生き延びる。

今の人類の始まりとなる。

 

進化は異端より起こる。

何かいつもと違うことが起こる。

これは大変だ。

困った。

と思ってしまう。

 

そんな時は何か進化のための知らせではないかと考える。

そんなことを思って出来事を見てみる。

 

すると困ったことも受け入れることができる。

少しかもしれないけれど。

受け入れられる。

 

 

2023/12/20

 

 

中学生においては中学2年生がいろいろな面において重要な学年となります。

 

中学2年生は中学1年生からつながり、中学3年生へとつなぐ重要な役割の学年です。

中学1年生の学習の理解ができていない場合は中学2年生ならば丁寧に復習をすることができます。

さかのぼって基本をしっかりと定着させることができる学年でもあるということです。

 

数学で考えてみると、中学2年生では中学において重要な3つの単元を学習します。

1. 連立方程式の利用

2. 1次関数

3. 合同の証明 です。

 

これらは実力テストでは必ず出題される単元となります。

しかも、理解しにくい単元です。

ですから、しっかり理解して、できるようにしておかなければなりません。

 

これらをできるようにするためには中学1年生の学習の理解が必要となります。

中学2年生が重要な学年だということは中学2年生でがんばればよいというわけではありません。

 

中学1年生の学習。

これが土台となって中学2年生の学習が成り立ちます。

 

中学2年生は重要な学年。

だから、その重要な学年のためにしなければならないこと。

それが中学1年生の学習の理解となります。

 

中学1年生からしっかり勉強していかなければ。

という気持ちを持つことが必要になるわけです。

 

つまり、どの学年もしっかり勉強しなければならないという結論になってしまいます。

 

 

 

2023/12/13

 

 

作られたイメージ。

それも勝手に作られたイメージ。

それは間違っているかもしれない。

けれども合っていることもあるかもしれない。

本質は置き去りにされている。

 

作られたイメージは分かりやすい。

複雑ではなくなっている。

だから頭に入りやすい。

印象に残りやすい。

 

人に会った時の第一印象もイメージだ。

そんなイメージで人を決めつける。

人を第一印象で決めてしまう。

イメージを作ってしまう。

 

多くの人のイメージをまとめて県民性、国民性などと言って遊んでいる。

県民、星座、血液型占いなどということが流行する。

 

知らない人はイメージにより知らないものを知った気になる。

そうやって物事が作られていく。

 

一度も会ったこともないのに。

一度も行ったことないのに。

知った気になる。

 

いろいろなことのイメージが作られいく。

本当のことが分からないままイメージだけが独り歩きしていく。

 

そしてイメージは本質を押しのけて居座ってしまう。

世の中はそんなイメージで作られている。

 

 

 

2023/12/07

 

 

コーヒーはマグカップで立って飲む。

紅茶はティーカップでテーブルを前にして座って飲む。

日本茶は湯のみで畳に座って飲む。

 

実際はそうではないけれど。

自分の中でのイメージはそうなる。

 

コーヒーは仕事の合間に仕事に向かうために飲む。

紅茶は午後のひと時を優雅に過ごすために飲む。

日本茶は朝に、これから仕事を頑張ろうという感じで飲む。

 

自分の中でのイメージはそうなる。

自分がイメージすることと同じように他の人もイメージすることはない。

他の人はまた別のイメージを持っている。

 

各自、それぞれにイメージがある。

今までの経験、環境、その他いろいろなものがかみ合わさってイメージは作られる。

 

イメージは固定観念である。

ということは偏見とも言える。

イメージは偏見の塊だ。

 

自分の独断と偏見でイメージは作られる。

本当はどうかも分からないのにちょっとした印象でイメージが作られる。

いつの間にか、そのイメージは定着する。

そして、イメージが実体になってしまう。

 

イメージはあくまでもイメージだ。

本当は実体とはかけ離れている。

そういうことが多いだろう。

 

人に対してもイメージを作る。

人は他人に対してイメージが良いとか悪いとか感じる。

初めの時に作られるイメージが多く残る。

 

そのイメージは実体と合っているのか違うのか。

それは分からない。

そんな分からないイメージで他人を形成する。

 

あの人はそういう人だからしょうがない。

あの人がそんなことをするはずがない。

 

そんな言葉が出てくる。

イメージにより作られる言葉だ。

 

2023/11/30