「神経症が増えている」
最近、こんな記事に出会うことがあります。しかし自助グループを運営している立場からすると、むしろ典型的な神経症は少なくなっているような気がするのです。
その代わり増えているのが、これから述べようとする「神経症未満」の人たちです。彼らは健康とは言えませんが、かといって病気でもありません。漢方で言うと、「未病」の状態かもしれません。作家の五木寛之氏は、こんな人たちを「心が不自由な人」と形容しました、
身体が不自由であれば、もちろんその方の深い部分まではわからないにしろ、健常者も何となく想像力を駆使して理解することが可能です。だから障碍者を見ると、何とか「助けてあげたい」と思うのでしょう。
しかし、心が不自由であることは、外からはわかりません。その人一人一人が心の中に抱え込んでいるものです。
「心が不自由」であるとは、自分の心をコントロールできない苦しみです。こうした悩みは、もしかすると身体的なハンディを持つ人以上のものがあるかもしれないのです。
最近は、どこの心療内科も満員御礼です。もちろん悩みを抱えている人が、さほど抵抗もなく通えることは、とても良いことだと思います。
西洋では、お抱え精神科医が居たり、プロのコーチングを受けたり、教会に行って牧師のカウンセリングを受けたりすることが、当たり前になってきています。
しかし日本では、とくに宗教に対する不信感が根強いので、なかなか教会やお寺に行って話を聴いてもらうと言うことは難しいようですね。
そうなると日本では、友達か、親か、学校の先生くらいしか相談できません。さらに現代は個人主義、秘密主義が主流になっていますので、特に利害関係のある人には相談しにくい状況になっています。
それだけではありません。現代は競争社会です。幼稚園に入る時でさえ、塾に行かせる親がいるそうです。その際「面接ではこう言いなさいよ」とか、「あんなこと言っちゃいけないよ」とか、いろいろ幼い頭に叩き込まれます。
当然子供は素直ですから、親の言う通りにします。他の人に弱みを見せてはいけない。自分の悩みは絶対他人に話してはいけない。と思い込まされて育っていきます。
大学進学にしても就職にしても、すべて競争です。少子化と言われながらも、どこの街でも進学塾が乱立しています。それと並行して、企業ではリストラが進んでいます。そんな競争社会の中では、絶対に蹴落とされたくないと言う気持ちで、皆さん頑張っておられるのでしょう。
その競争から脱落したり、外れてしまうことは、即「社会的な死」に繋がり、みじめな一生を送る羽目になってしまいます。
かつて身体に障害のある人たちは、差別的な扱いを受けたり、いじめの対象になったりしました、しかし現在では、社会や個人の理解が進み、環境も改善されつつあるので、その中で障害を持ちながらも正々堂々と生きて行こう、と言う考えが主流になりつつあります。
しかし、心の不自由さを抱えている人は、それを表面に出せないのです。だから誰もわからないのです。
参考・・・「不安の力」、「森田式生活法」