以前書いたかもしれませんが、劣等感の話ついでに、リブログしたいと思います。
神経症になるような人に共通しているのは、その根強い劣等感です。
例えば、どもることで悩む人がいます。いわゆる吃音恐怖ですが、ここではどもり恐怖と言っておきます。
画像 特別支援学級のトビラ 授業で話せない子供
彼らは「どもることは、人間として最も劣ることであり、最も恥ずかしいことである」と言う強い信念を持っています。だから何とかどもりを治そうと、高いお金を投資してでも、努力を続けることになるのです。
でも、どもることって、本当に人より劣っていることになるのでしょうか。
個人的な意見ですが、どもりながらでも一生懸命話そうとする人を見ても、さほど嫌な感じは受けません。それどころか心の中で、応援したくなってしまいます。
さらにその朴訥な印象が聞き手に安心感を与えたり、好感を持ってもらったりするのです。
すごいですよね。どもる人は、それだけで聞き手に好感を持ってもらえるという、お得な「特典」かあるのです。
発見会の水谷先生は、こんなことを言っていました。
「えくぼは愛嬌、どもりも愛嬌、無理して治す必要はありません」
人にも良い点と悪い点があるように、物事全てに、プラス面とマイナス面があります。神経症になるような人は、マイナス面しか見ないような「癖」がついているのです。
だからこそ、両方の面をまんべんなく見られるように、森田療法では、「両面観」と言う考え方を勧めているのです。
画像 生鮮食品館 ベイはしば 何事にも良い面と悪い面がある
マイナス面しか見ようとしないから、(と言いますか、症状がひどい時にはマイナス面しか目に入らない)劣等感が生じてしまうのです。
さて、そんなあなたに一片の詩をご紹介しましょう。
わたし抜けている けれどおおらか
わたし気が小さい けれど真面目
わたし優柔不断 けれどやさしい
わたしおせっかい けれどよく気が付く
わたしいい加減 けれど気さく
わたし傍若無人 けれど豪気
わたしシラケ けれどよく見ている
わたし井の中の蛙 けれど天の高さを知っている
どもり恐怖の人が、この詩になぞらえると、こんな風になるでしょうか。
わたし話すときにどもる けれど愛嬌がある
わたし話すときにどもる けれど一生懸命
皆様も、自分は人より劣っていることで悩んでいたら、ぜひともプラスの面から眺めてみてください。劣等感で苦しんでいる気持ちに、変化が現れるかもしれません。
参考・・・「生活の発見会メルマガ あずま橋通信」