アドラーと劣等感 | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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『人より〇〇が劣っています』とか、『自分には価値がない』とか、『人からダメ人間だと思われている』などを訴える人は、自己評価が低いとか、自尊心が低いとか、自己肯定感や自己効力感が低い等と言われます。しかしこれらももとをただせば、アドラーの「劣等感」の概念にたどり着くのです。

 

  画像 ヤフーニュース そのままで良い劣等感克服すべき劣等感

 

アドラーは体の機能不全の事を、「器官劣等性」と言いました。アドラーによると、「劣等感」は「器官劣等性」に対する自己評価であり、これが『自分は劣っている』と言う自己認知に繋がっているとみます。あくまで「意味付け」にすぎないので、いくらでも変更は可能です。しかし、劣等感が生じるのは、器官劣等性だけではありません。劣等感は私たちが生きるうえで必要なものでもあるのです。

 

「劣等感」に近い言葉で、「劣等コンプレックス」と言うのがあります。こちらは『自分が他者よりも劣っていると思いながらも、それを認めようとしない』時に起こります。

例えば自分は走るのが遅いから、応援に回る人がいます。彼は自身の劣等感は意識していますが、劣等コンプレックスではありません。

一方で、「なんで俺をリレーの選手にしないんだ」と怒りを表す場合もあります。これは自分の劣等性を認められないために起こる感情であり、劣等コンプレックスと呼ばれるものです。

 

また、自分の劣等であることを理由に、人生の課題から逃げようとするときにも、劣等コンプレックスになることがあります。逆に自分が劣等であることで、人一倍努力する人もいます。

例えば家が貧乏で、勉強もまともにさせてもらえなかったという過去を持つ人がいます。ある人はその境遇をばねにして、他の人の何倍も勉強して、大学に入りました。

一方、同じ貧乏と言う劣等感に押しつぶされて、「どうせ俺は何をやってもダメなんだ」と思って、必要な努力さえも放棄する人もいます。

前者を「補償」、後者を「劣等コンプレックス」と言います。

 

         画像 ひあたりブログ 努力を邪魔する心理

 

「劣等コンプレックス」は、「劣等感」が過度になったもの、と言う印象がありますが、何かにつけて自分の劣等ぶりが頭に浮かび、行動することを諦めて無力感にのみさいなまれてしまいます。そうかと思うと、「劣等コンプレックス」は容易に「優越コンプレックス」に転化します。「劣等コンプレックス」と「優越コンプレックス」は表裏一体のもので、実は同じものなんです。アドラーは「優越コンプレックス」を、「耐えがたい劣等コンプレックスを変装させる神経症的テクニック」と呼んでいます。

 

劣等感の対処として、望ましい方向に補償していく場合と、優越コンプレックスのように、無益で報われない方向に向かっていく場合があります。アドラーはその違いを「共同体感覚」の有無と関連していると主張します。

即ち自分だけが得をする道を選ぶか、人に役立つことを喜びとするかの違いです。だから共同体感覚は子供のうちから身に着けさせる必要があると、アドラーは考えたのです。だからアドラーは個人的なカウンセリングよりも、子育てや教育に特に尽力したのですね。

 

参考・・・「アドラー臨床心理学入門」