とある方の学生時代の逸話です。
学校の帰り、同じ方向に帰る学友から声をかけられ、一緒に近くの駅まで歩いてきましたが、苦しくなってきたので、用事があると嘘をつき、学友と別れて一人で帰ってしまいました。
対人恐怖の人間として身につまされる話ですよね。
で、彼はどうして苦しくなってしまったのでしょうか。
画像 こひつじの家 電車のロングシート
「電車の中で話すこともなく、黙って二人でいる時の気づまりを考えると、どうにもならないほどの苦しさを感じるのです」と、彼は言うのです。
「黙っていると気づまりで、それが相手にもばれて、相手も不愉快になるのです。かといって自分は気軽に話せる話題も無いのです。」
第一に「沈黙」が怖い。第二に、その沈黙を生み出した自分は嫌われるのではないかと言う不安があること。なんですね。
このような人が前に書いたように、話し方教室に通ったり、話し方の本を読み漁ったりするわけです。考え方はよくわかるのですが、こういう人は大きな考え違いをしているのです。
それは、「会話と言うものは、聞き手があって初めて成り立つもの」と言う、ごくごく当たり前のことなんです。一人でべらべらしゃべっているだけでは、それは演説であり、会話ではありません。
あなたの友人が自分の話を親身になって聞いてくれたとします。どんな気持ちになると思いますか? 少なくとも悪い気持ちはしないでしょう。
親身になって聞いてくれた相手に、親近感や信頼感を覚えるはずです。自分を理解してくれたことも喜びの一つですよね。
画像 ゼロワンインターン 話し上手と聞き上手
ところが件の彼の話を聴いていると、彼はいつも自分が話し手としての会話ばかりを想定しているようなのです。だから、話題がないと悩んでしまうのです。
何時も豊富な話題を以って、相手を楽しませなければならないと考えているようです。
しかしどうでしょう。
もし仮に「彼」が友人だとして、「彼」が次から次へと「豊富な話題」をマシンガンのように話し続けたとしたら、どう思いますか? おそらくほとんどの人は敬遠すると思いますよね。
こんな話を彼にすると、彼はきょとんとしていました。沈黙を極端に恐れる彼の頭では、「聞き上手」の意味が良く理解できないようなんです。「場をつなぐ」ことで頭がいっぱいなんでしょう。
そして、半信半疑で、こんなことを言ったのです。それを聞いて、「彼は(思いのほか)重症なんだなぁ」と思ったんです。
参考・・・『人はなぜ対人関係に悩むのか』、「森田式精神健康法」