全ての悩みは対人関係? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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アドラーはこれまでに様々な「名言」を残していますが、今回説明する「すべての悩みは対人関係である」も、その代表的なものでしょう。最初は私も「えーっ、そんなことはないでしょ? きわめて個人的な悩みもあるでしょう?」と思っていたのですが、それさえ根本には対人関係の問題が潜んでいたのです。

実際カウンセリングに訪れる人の悩みのほとんどは、対人関係にかかわることです。

 

 

言うまでもなく、人は一人では「人間」になれません。赤ん坊が常に他者の保護なしには生きられないのと同様、私たちもまた他人との関係の中でしか生きられません。

もし人がたった一人で生きているのなら、そこには善悪もないし、言葉も不要です。しゃべる必要が無いのなら、論理も不要です。しかし一人でも他者が存在するのならば、話は全く変わります。

全ての事を対人関係を基本に考えて行かなくてはならないのです。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る「敵」とみなすことから始まります。例えば親子関係です。もし子供が親の言うことなら何でも聞く従順な存在であれば、何の問題も起きないはずです(これはこれで別の問題が生じますが)。

しかし実際は親がいくら要求しても、子供は言うことを聴いてくれません。こうした関係が続くと、親子は互いに相手を「敵」だとみなすようになります。

 

 

これはもちろん親子に限ったことではなく、夫婦関係や友人関係、職場の対人関係など、すべての人間関係に言えることなのです。

アドラーによると、「他者を敵とみなす思考」こそが、人間関係の悩みを作り出していることになるのです。

カウンセリングに来る人は、他者は隙あらば自分を陥れようとしている怖い存在、さらにはこの世界を危険極まるところとみています。なぜ、そんな風に思ってしまうのでしょうか。

 

それは目的論的に言うと、「他者との関係に入りたくない」と言う目的があるからです。他者と関われば、必ずそこに軋轢が生まれます。憎まれたり、嫌われたり、裏切られたりします。そうなると傷つくのが怖いので、「他者とかかわりを持たないようにしよう」と考えるのです。そういう思いを正当化するには、他者を敵とみなすことが最も適切なんですね。

 

けれども実際は彼らが恐れているほど、怖い人ばかりではありません。危険な事ばかりあるわけではありません。対人関係は確かに悩みの源泉ではありますが、同時に生きる喜びとか幸せなども、対人関係の中でしか得ることは出来ません。

つまり、対人関係から逃げてばかりでは、幸せになることは出来ません。私の上司が昔、こんなことを言いました。

「いいか、心の扉を閉じちゃだめだぞ。それでは悪いものも入ってこない代わりに、良いものも入ってこない。悪いものは受け止めてから外に出せばいいんだ。」

 

 

人間が抱える悩みのほとんどは、対人関係の悩みであると言いました。人間の悩みはすべて、根本のところで対人関係の悩みに繋がっているのです。

例えばお金の問題。お金が無いと、他者に迷惑をかけてしまいます。また病気になると、やはり他者に迷惑をかけてしまいます。

私たちは良く「劣等感」と言うものを味わいます。「劣等感」とは、「主観的価値判断」です。つまり、『自分には価値が無い』と主観的に思い込んでしまうのが「劣等感」です。

しかしアドラーに言わせれば、これは「劣等性」とは関係ないというのです。

 

例えば背が低いことで悩んで、劣等感を持っている人がいるとします。しかし「背が低い」と言うだけでは、それを「劣等性」と言うことは出来ません。そもそも「背が低い」と言う基準があいまいです。したがって背が低いだけでは、障害やハンディキャップとは言えず、したがってそれ自体は「劣等性」ではないのです。

問題なのは、その身長について、どのような意味づけをするかと言うことです。その多くは「他人との比較」から生じます。ここに初めて「価値判断」が入り、主観的な「劣等感」が生じるわけです。

 

「劣等感」もまた、対人関係が原因だったんですね。では私たちはどうしたらよいのでしょう。要するに他者を敵とみなすことから問題は生じたのですから、「他者は仲間である」と考え方を変えればよいことになります。そうするだけで人生は大きく変わります。

詳細は後程お話いたします。

 

参考・・・「人生の意味の心理学」、「アドラー心理学入門」