「今、ここ」に集中③ | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

昨日は、私たちは「自意識」と言うものを持っていて、それが不安や後悔を生み出している。と言う話をしました。「自意識」はなくそうとしてもなくなりません。

いくら自意識を邪魔者扱いしても、「自意識を邪魔者扱いしている私」と言う自意識は残ってしまうのです。

自意識をなくすことの難しさは、実際皆さんがいたるところで体験していると思います。

例えばこんな場面を想像してください。

 

 

友人と話し合っていると、知らない間に友人はあなたの財布をすろうとしています。信頼していた友人ですから、あなたの驚きは大変なものでしょう。おそらくこんなショッキングな場面に遭って、心が動揺しない人なんていないと思います。

けれどこの様子を遠くから眺めていた第三者は、どう思うでしょうか。せいぜい友達同士が戯れているな。程度の認識でしょう。こころがほとんど動揺しないのは、他人事だからです。

私たちは「他人事」なら何でもないような事でも、『自分ごと』になると、途端に冷静でいられなくなります。

 

ずいぶん昔ですが、日常でできる「行」と言うものを紹介しました。心がすさんだ時、心が落ち込んだ時、心が怒りに震える時、「行」をやると不思議に心が落ち着いてきます。

何、たいしたことではありません。例えば目の前のテーブルを拭く、眼鏡を眼鏡吹きで丁寧に掃除をする、アイロンがけをする、あるいは深呼吸や瞑想もいいですね。こうしたさりげない「行」には、実は自意識を小さくしたり、おとなしくさせる効果があるのです。

「行」をすることによって心が軽くなったり気分爽快になるのは、自意識が小さくなったりおとなしくなった結果であるのです。

ではなぜ「行」をすると自意識が小さくなっていくのでしょうか。

 

 

それは森田療法で言われているように、「対象になりきる」ことになるからです。

「対象になりきる」とは、どういうことかを説明するのに、よく私は楽器演奏を例にとります。

例えばバイオリンをどれだけ豊かな音を出せるかと言うことは、単に力の強弱ではありません。なぜなら華奢な女性であっても、男性に負けない力強い音色を出すことができるからです。

おそらくですが、弓と弦、さらに本体と演奏者の体が感応しあって、お互いの同調性が高まるのです。

そこにはテクニック的な「弓で弦を振動させる」と言う小手先の技術はありません。

 

演奏者の全身全霊が、そしてバイオリン本体も含めて一体化し、全体が一つの生き物のような有機的な結びつきが得られているのです。

その結果、通常では考えられないような、豊かで力強い音になるのですね。

言うまでもなく、自分と対象は別々の存在です。ですので両者の接触する境界線をあいまいにし、最終的には融合させるような働きかけが必要です。これが「同調性を高める」ことであり、「そのものになりきる」ことであるのです。

自分と対象を分けていた境界線が、あいまいになるにつれ、結果自分の内側のみに充満していた自意識は、対象を通じて広い世界に拡散されていくのです。

「自意識」が小さくなるのは、おそらくこういうことです。

 

 

「行」のクオリティを上げるにはいかに対象と一体化できるか、いかに「なりきる」ことができるかにかかっています。

「アイロンがけ」で説明します。

アイロンと衣服、それに自分自身を同調させます。そういう意識でアイロンをかけてください。するとやがて、自分がアイロンをかけているのか、アイロンが先導して自分を動かしているのか、わからなくなってきます。

これが対象との融合です。その瞬間「なりきって」いるのです。

なりきることができると、不思議に心が落ち着いてくるのです。

 

スポーツなどのシーンで、良く「リラックスしていこう!」と言われます。

しかしいくら「心を静かにしよう」、「心を落ち着かせよう」

としても、自分で自分の心を落ち着かせることなどできません。なぜなら「心を落ち着かせよう」とする「自意識」が、心を落ち着かせるのを邪魔してしまうからです。

自意識は常に過去と未来によって揺らいでいます。心を本当に落ち着かせるには、自意識の枠組そのものを取り払い、過去や未来にとらわれることのない「今、ここ」に居続けることが重要なんです。

「行」をすると、自分と対象を反応させ、さらに同調融合させることになります。そのことが自意識の枠組みを崩し、結果自意識が小さくなって、心は自然と落ち着いてくるのです。

以上で「今、ここ」の話は終わります。

 

参考・・・「マインドフルネスそししてACTへ」、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」