良い死に方? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

今日紹介するのは、森田先生の色紙と言うより、良くお土産屋で売っている湯飲みや手ぬぐいなどで、おなじみの歌であります。

森田先生自身も、この川柳と言うか、ざれ歌のようなものを好み、色紙にも書かれていたと言うことらしいのです。

 

森田先生は長い闘病生活の中にあっても、決して人生を諦めませんでした。先生はいまわの際にあっては、『死にたくない』と泣き喚きながら、亡くなっていったといいます。一部の評論家は、これを『女々しい生き方である』と酷評していました。

 

 

けれども私は、これほどまでに人生を真正面から生きてきた人は少ないのではないかと思います。動物や植物は、ひねくれた死に方はしません。どのような境遇に出会っても、出来る限り生きようと努力するはずです。

 

最近医療の間で、『尊厳死』と言うことが話題になります。人間は死ぬそのときまで人間としての尊厳を保つべきであると言う考え方です。私もそう思いますし、そういう死に方をしたいとも思います。しかしこればかりは自分でコントロールすることは非常に難しいのですね。森田先生は次のように述べています。

 

『どのような死に方をするのか、自分にはまったく予想できない。意識障害で死ぬかもしれないし、錯乱状態になるのかもしれない。そのようないくら考えてもわからないことをあれこれ考え。不安な日々をすごすよりも、現在を精一杯充実させることを先行すべきである。』

なにやらお釈迦様の『毒矢の例え』を彷彿とさせますね。

 

私も森田先生の意見にまったく同感です。一般的なことを言うと、良い死に方とは、良い生き方の延長線上にあるものだと思います。けれどいくら良い生き方を続けてこようとも、いろいろな障害で尊厳らしからぬ死に方をする場合もあるでしょう。それは仕方の無いことです。

 

現代は死について語ることはタブーとされているようです。誰でも必ず死ぬことは確実なのに、それをあえて見ぬ振りをしているかのようです。確かに死は恐怖そのものです。ですが、そこから逃げようとか、考えないようにしようと計らうことそれ自体が、より死の恐怖を増幅していると言う事実に気づかなければなりません。

 

それを怠り、常に若さと老いを比較して、いつまでも若くありたいと、無理なアンチエイジングに走ったり、日野原先生のようなスーパーお年寄りを目指したりするのです。元気なお年寄りが増えるのは悪いことではないのでしょうが、元気が出せないお年寄りの立つ瀬がなくなります。おちおち老いぼれてもいられなくなってしまいます。老いることが出来ないお年よりは不幸です。

 

 

せっかく来たお迎えを"蹴っ飛ばす"ことばかり考えているから、死はいつまでも恐怖であり続けるわけです。年をとれば体の機能は衰えてくるし、物忘れも激しくなります。そちらの方が当然のことなんですね。

だから家族の負担を考えないことにすれば、ポケたり体が不自由になることは、本人にとってある種の『喜び』であると思うんですよね。

 

ポケてきたら、『ああ、俺ももうすぐ極楽浄土へ行ける』と思えばいいのです。極楽浄土が在るか無いかは問題ではありません。

ちなみに親鸞聖人は、お念仏を唱えれば極楽浄土に行けると説いていらっしゃいますが、極楽浄土の存在を証明したわけではないのです。

 

極楽浄土と言うのは、『死んだら必ずいけると信じる世界』のことなのだそうです。つまり、『在る』と信じるその一途な気持ちそのものが、すでに『極楽浄土』なのです。

森田先生の『努力即幸福』そのものですね。

 

参考・・・『死に方上手』