「どもり」は差別用語なのか? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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職場の女性にひどい『偏頭痛』持ちがいます。私はあまり頭痛の経験はありませんので、どうしても飲みすぎた後の『二日酔いでの頭痛』を想像してしまうのですが、それと『偏頭痛』の痛みとはだいぶ様相が違うみたいなんですね。いつも彼女から『(自分の痛みは)そんなやわなもんじゃない!』とお叱りを受けるのですが、経験が無いものわかりませんよね。

 

さて、コレを呼んでくださっている読者のあなたは、吃音症状はお持ちでしょうか。これから書こうとしている記事は、吃音が無い方向けに書いています。もしあなたが吃音にお悩みであれば、もしかしたら大変失礼なことを書いてしまっているかもしれません。その節はどうぞお叱りのコメントなどをいただければありがたいです。

で、目の前のあなたは、吃音者ではないという前提でお話を進めますね。

 

 


一つ質問をいたします。吃音の症状のある人が、あなたから見て普段より特に『どもり』がひどいように感じたとしたら、その当事者はどういう心理状態だと思われますか?

おそらくほとんどの人は『あせっている』、『あわてている』、あるいは『緊張している』と言う風な答えをするのではありませんか。それは吃音者ではないあなた自身がそうだからですね。それはあくまでも想像に過ぎません。あたかも『偏頭痛』を知らない私が『二日酔いの頭痛』で理解しようとしたように。

 

確かにあせっていたり、急いでいたりすると、『どもり』がひどくなる人も居ます。あるいは大勢の前でスピーチ等するときに『どもる』人も居ます。あるいは逆に親しい人と話すときや、リラックスしているときのほうが『どもり』やすい人も居ます。もちろんどんなときでもあまり差の目立たない人も居ます。

よく学校での朗読や発表ではあまりどもらないのに、家でひどくどもる子供が居ます。この場合、親が緊張させているのではないかと、親が問題視されることもありますけれど、家では安心してどもれる環境にあると考えられる場合もあります。

このように吃音の現れる条件は、人によって環境によって異なるのです。

 

更に『どもり』の症状を一般の人たちにわかりづらくさせているものに『波』があるのです。つまり良くなったり悪くなったりと変動があるのです。特に子供の場合、その変動の幅が大きく、『しばらくほとんどどもらなかったのに、最近ひどいんです』と言って原因探しをする親御さんが多いと聞きますが、変化するのが吃音の特徴であることを知っていますと、いたずらに症状に振り回されずに済むと思います。

大人になっても調子の良いときと悪いときが、季節単位、あるいは時間単位で変わる人が居ます。自分の『吃音』は比較的軽いのか、それとも重いほうなのか、自分でもつかみきれなくなってしまうのです。

 

さて、コレまでの記事の中で、『吃音』と言う言葉と『どもり』という言葉を特に意識しないで使ってきました。いつの頃からか、『どもり』と言うのは差別用語だから、使用を控えるような動きがあるのは事実のようです。

昔は専門書の類であっても堂々と『どもり』の文字がありました。あるいは『どもり』、『赤面』直します! なんて看板や広告を見かけた人も居るでしょう。早稲田の東京○○学院ですね。

おそらく『どもり』と言う言葉には、『どもる人』という意味合いも含まれるため、その昔クラスの友達に「やーい! どもり、どもり」といじめられたりからかわれたりされた経験の持ち主も居たことから、差別語の一つとして、メディアが自主規制をしてきたのでしょう。

 


しかし本来『どもり』はその人の特徴を表す言葉の一つであったに過ぎないのですよね。例えばあの人は背が高い。この人は背が低い。この人は『どもり』だ。単にそれだけの問題であったはずです。

もし『どもり』が差別だとしたら、『背が低い』とか『女性である』と言うのも差別用語にしなくてはなりませんね。

『吃音者宣言』の中でも、『私たちはどもりであることを受け入れ、『どもる人』として生きてい

くことを宣言する』というような文がありました。つまり今まで何とか治そうとして惨めな思いをしてきたのは、その根底には『どもり』を劣ったもの、恥ずべきこととしての認識しかなかったために、余計な苦しみを抱えてきた現実があったのです。

 

あなたはどう思いますか。『どもり』という言葉は使うべきではないと考えますか。

私はむしろ、こういう言葉を使うべきではないと主張する方々の心の中に、抜き差しなら無い差別意識が潜んでいるように思えるのです。果たして『どもり』は、そんなに悪く、劣った、回りに気を使ってもらわなくてはならないもなのでしょうか、暗澹たる気持ちになってきます。

『どもる人』として生きていく決意をした吃音者にとって『どもり』を死語にすることは、その人たちの存在を否定することと同じだと思うのです。

『どもり』を大手を振って使えないような社会こそ、病んでいると思いませんか?

 

参考・・・『どもりと向き合う、一問一答』解放出版社