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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

昨日、修士論文の第一回中間発表会が終わって、ほっと一息つきました!!


かなりぎりぎりまで考えが二転三転して、あいまいな論点をいくつか残してしまったままの提出だったけど、好意的な評価を得られてよかったぁ。


「丁寧な分析に、人柄を感じます」だそうで。


そんなばかな!!(笑) いえいえ、日頃のおこないですね(嘲)


やっぱり、自分のやってることを面白がってもらえるってすてきなことだなぁと、あらためて思います。


言葉ってやっぱすごいですねぇ。


これを励みに、もう一生勉強しなくてもいいくらいの修士論文を書き上げたいものです。



今日のタイトル「アクラシア」


あんまり意味はないのですが、語感がカッコイのでついつい。


もとはギリシア語。意味は、「それをすることは悪いとわかっているにもかかわらずやってしまう事態」のこと。


かなり、こころ当たりあります(泣)


むしろ、生きるってことは、そのまんまアクラシアなんではないだろうか。という過激な発言も可能??


なんで、こんな話がでてきたのかというと。、今日、永井均の『なぜ人を殺してはいけないのか?』を立ち読みしたから。


永井の「<魂>への態度」に、やっぱりこの人は凄いこと考えるなと、感心しきりである。

そのなかで読んだことを今の時点で消化して、適当に僕の話を付け加えるとこんな感じになる。


①倫理とは、相手に対して「あなたが世界の中心である」と告げることからはじまる。


②「あなたが世界の中心であると告げるとは、「僕があなたの世界の登場人物であり、それゆえ、あなたの権能の下にあるということの開示」である。


③この発想で、イエスが提示した道徳「右のほほをかれたら、左のほほをさしだしなさい」を語りなおすことはできないだろうか??、


④永井的にいいなおせば、イエスの言葉は「あなたは僕のほほをたたいてもよい。だから、僕はあなたのほほをたたなかない」となる。


おそらく、イエスの場合は、すでに右のほほをたたかれているがゆえに、表面上はおなじに見える行為であっても、永井的な倫理よりももっと「過激」になってしまっているというのが見通しだが、はたしてどうだろうか。


そんなことを考えながら家についたら、元会社の同期のみんなから素敵なプレゼントが届いていた。

ありがとうー!! 年をとると涙もろくなっていけねーや。うえーん、おわーん(涙)


ほんとうにすてきな人たちに出会えたんだなぁと感じました。

遠く離れてはいるけれど、心がアクラシアなときには、いつもみんなのがんばってる姿を思い浮かべて、僕も頑張ってます。


のめりこんでいこう。がむしゃらにいこう。

ふりかえるのは、あとからでいい。いや、あとからしかできないんだから。


やりたいように突っ走っていきたいと思います。とえいあえずは、いけるところまで。

家にいる時間が多いので、長年の夢であるコーヒーメーカーを買ってみた。

ドリップ式。

ドリップ式のコーヒーメーカーは、コーヒーの粉をセットしなければお湯沸かし器としても機能する。

何気にカップめんに注ぐお湯もバッチリ沸かせるのである。

それにしても。

機械とは素直なものだ。

3杯分の粉と4杯分の水を入れたら、最初の1杯分だけ薄い4杯分のコーヒーができた。

あたりまえといえばそうだけど。

でもさぁ。

いろいろと考えているうちに、世界の中での僕の輪郭がふやけてしまって、しかも頭が「今日は、この先いけません」サインを出してくるときがあって。

そんなときに、コーヒーメーカーのわかりやすさを感じたりすると。

あっという間に僕は輪郭を取り戻すんだよね。

そういえば。

機械って人間が一生懸命考えて作り出したんだっけ。

不確かな世界の中に、確かなものを置こうとする衝動。

僕もまだ小さい頃、名前に「自動」とつくものが大好きだった。

そういえば。

ふるさとを思う心。確かな思い出がある場所への憧憬。

僕が輪郭を取り戻す構造は同じだけどさ。

でも、絶対ふるさとのほうがいいよね。

機械の確かさと思い出の確かさ。

人間って自分好きなんだな~

そういえば。

コーヒー、うまい。

そういえば、今日は「そういえば」ってばかり言ってるなぁ。

ということは多分。

これから僕の輪郭がぼやけそうな、

気配。
京都に引っ越したころに、気楽な身分になったこともあり、久々に頭を剃ってみた。


だいぶヒドかった。


今では、もう髪も結構伸びてるし、冷静に振り返ることができるものの、散髪当時はほんまひどうございました。


頭剃り、
見つけた自分は、
でこひろし。


ま、いっか!!

あんまり暇ではないのだけれど、勉強がすすままないので、腹いせに映画を見てしまった。

『図鑑に載ってない虫』 三木聡監督(2007年)


※三木聡監督は、シティーボーイズのコント脚本や、トリビアの泉の放送作家として知られる人物。

 映画監督としては、『イン・ザ・プール』、『亀は意外と早く泳ぐ』、『ダメジン』、『転々』などを手がけている。

 しかも、ドラマ『時効警察』の脚本も担当。

これまでの、三木監督の経歴を見れば、はずれ作がないことは予想できた。

しかしである。『図鑑に載ってない虫』は、予想を超える面白さで、楽しんでしまった。うかつにも2回見てしまった。


ストーリーは、フリールポライターの主人公(伊勢谷友介)が、なぞの虫”死ニモドキ”(その体液を飲むと、一度死んでから生き返ることが出来る)を見つけ出し、臨死体験のルポ原稿を書くように依頼され、アル中のオルゴール職人遠藤と”死ニモドキ”を探しに出るというロードムービー。途中、奇妙な人たちがなぜか同行してくる流れになり、いろいろ事件が起きる。


この監督の作品はもちろん、随所にまぶされた小さいネタが面白いのと、この作品ではなんたって、

セリフがいいのだ。


「人間には二通りあるの。いなくなるといなくなるタイプと、いなくなってもいるタイプ。」

「夏の終わりって、はっきりしているからさびしいのよ」

「反省しろ!」「やだね~人間、反省するから年とるんだ~」

「結局、おれは今生きてるのか死んでるのかわからない。でも、それはそれでいっか!!」

「うっかり死んでんじゃねーよ」

「あの時声をかけてれば、あの子は助かったのよ」


特に、菊池凛子はウマイ。雰囲気がすばらしい。あんま意味がわからない台詞を言うのがかなりうまい。

彼女のこの作品での役どころは、SMクラブで働いていた女の子。途中から、主人公たちと合流する。

自殺未遂を繰り返しながら(腕のリストカットの傷でワサビすれてるからね!!)、どこか気が抜けてて、メンバーに突っ込みながら、なんか気になることをいう女神的な存在を見事に体現している。


ナンセンスが、起動する、あたたかさ。

それが重要ではないがゆえに、逆に利害関係や自分のポリシーとかから離れて暖かく見ることができる事柄。


この作品は、「いなくなるといなくなるタイプ」を目指してるがゆえに、「いなくなってもいるタイプ」だと思う。

コメディ、ここに極まれり。

京都は映画館まで自転車でいけるところがすばらしい。

MOVIX京都で上映していた『ぼくらと駐在さんの700日戦争』を見に行きました。


内容は、高校生たちが、受験そっちのけで、町にあたらしくきた駐在さん(美人な奥さんもいっしょ)と知恵を振り絞ったいたずら戦争をするって感じ。


しかし、ひたすら、熱い!!

イタズラについてこんなにアイデア出るんだから、勉強すれば結構ものになると思うのは僕だけだろうか(笑)?

もともとブログ小説として評判になっていたものを映画化したらしく、ストーリーは本当にこんなコメディ日本でしか作ってないと思われるほど面白い。すなおに楽しめたナイスコメディでした。


それにしても、「イタズラ=無駄なこと」を一生懸命やることがこんなにかっこいいのは何でだろう??

一見無駄っぽく思えるのに、主人公たちの間に出来上がっていく友情の深さは何でだろう??


それは、イタズラが、「相手のことを考える」こと抜きには成り立たないからではないかと思う。


たとえば、人間は挨拶を交わす。挨拶は、その言葉自体はあんまり意味をもたない。言葉として意味をなさないがゆえに、相手から無視される(=相手から傷つけられる)可能性を宿している。

挨拶とは、「私はあなたに傷つけられうる存在です」ということを表明して、コミュニケーションの場を開く言葉なのだ。(と、いうようなことが『レヴィナスと愛の現象学』 内田樹著に書いてあった気がする。)

だから、挨拶というコミュニケーションは、ある意味でやさしい。慎ましいといってもいいかもしれない。


しかし、そこで、僕は「挨拶」は「イタズラ」と比べたときに、相手をコミュニケーションに縛り付ける方法としては、たちが悪く感じられるのだ。それはなぜだろうか? その理由以下のとおり。


①挨拶は、「僕はあなたを傷つけるものではなく、むしろあなたに傷つけられうるものである」と表明することで、すなはち、自分を被害者予備軍、相手を加害者予備軍に位置づけることによって、コミュニケーションの場を開いている。


②イタズラは、「挨拶」と同様に、相手をコミュニケーションの場に縛り付ける行為ではあるけれど、「僕はあなたを傷つける」と自覚している点で、ある意味まっすぐなのであり、素直なのであり、すがすがしい。


③同じように相手をコミュニケーションに捕らる「挨拶」と「イタズラ」を比べたときに、「挨拶」は、ちょいと善人ぶっているだけ倒錯している(=たちがわるい)といえるのではないか??



別に現実の世界においてイタズラを礼賛するわけではない。(映画ならイタズラ大歓迎!!)

また、まっすぐなことが必ずしも良いとは限らない。(心意気は好きだけどね。)

しかも、おそらく、倫理的に見れば、挨拶の倫理的な正しさの前に、イタズラは頭が上がらないのではないかと思う。


でもしかし、である。もし清浄なコミュニケーションと呼ばれるものが、挨拶のように、ちょっと立ちの悪い形でしか成り立たないのであれば、ずいぶんめんどくさい世界なんだなぁってこと。

そんなこと、イタズラが公然と礼賛されてない時点でわかっていることではあるのだけれど。


ま、それがどうしたといわれれば、どうしたわけでもないようなレベルのめんどくささなんですが。


「でも、風通しわるくねぇ??」 僕にはこの映画の主人公たちが、そう問いかけているように聞こえるんだ。