宮崎駿監督の『風立ちぬ』を二週間前に見てきた。
正直なところ、腑に落ちた感じはいまだにしない。もやもやしっぱなしだ。感想というようなまとまった仕方で、鑑賞後の感覚が言葉になってくれないのだ。おそらく、これからも腑に落ちない感じは続くだろう。
それはたぶん、この映画が抱える複雑さが、克服しようのない複雑さだからだ。
改めて言うまでもなく、宮崎監督は天下無双の「線の使い手」だ。たとえば風と飛行機を区切っている翼の線。この翼の線は、そのまま自然と人工物の境界線でもある。
美しさというものがあるならば、自然と人間の境界にあるはずである。だから九六式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機そのものが美しいのではない。機体が風と対話しながら飛ぶ姿にこそ、美しさは潜む。映画にでてくる「理想の機体」は、「理想的に引けた線からなる形」のことだ。
もちろん宮崎監督の「線」は、人物、建物、木々、全てを「くまなく」動かしている。宮崎監督的には、生きているということは、動いていることだからだ。
この映画の中の「しぐさ」も素晴らしい。二郎の歩き方、「機関車は爆発しない」という冷静な台詞のトーン、激しい雨のなかパラソルをもって遠く前を見つめる二人の表情など、美しい「しぐさ」がちりばめられている。
しかし、「線」や「しぐさ」の美しさは、いわば断片的な瞬間ごとの美しさだ。一方で、主人公の二郎、菜穂子の織り成す物語は、真に悲しい。美しい瞬間の重なりは、戦争と疾病に翻弄され、悲しくボロボロの人生へと結実する。
二郎の人生には、「夢破れる者の美しさ」があるという人がいるかもしれない。しかし、夢が破れた時の悲しさが、美しさへと変わるには飛躍が必要だろう。悲しいから美しく見えることもあるのであって、その逆ではない。
二郎の人生を「美しい」とするよりも「悲しい」とする感覚の方が本質に触れている。そう僕の感覚は告げている。二郎の人生の物語は、やはり悲劇なのだと思う。
小林秀雄は「悲劇について」というエッセイで、ニーチェの『悲劇の誕生』を引きつつ、こう述べている。
「悲劇は、人生肯定の最高の形式だ、(中略)何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。」
別のエッセイ「政治と文学」でも小林秀雄は戦争という悲劇に言及している。
「失恋した男が、外交の失敗を反省していれば、誰にも異様な感を与えるでしょう。あれほど歴史の必然という言葉が好きだった知識人達が、大戦争は歴史の偶然だったような口のきき方しかできないのである。(中略)私たちは、もしああであったら、こうであったらというような政治的失敗を経験したのではない。正銘の悲劇を演じたのである。(中略)悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残して行くだけだ。」
宮崎監督の『風立ちぬ』は、小林秀雄の意味での「悲劇」に達していると思う。真の悲劇では、懸命に生きた美しい人生の断片が、集積すると悲しい物語になってしまう。「部分的には美しいものが、全体的には悲しい」という構図の複雑さが、この映画を見たときに僕の感じた「もやもや感」を生む原因だったのだ。
人間が精一杯生きるということは、この複雑さを解消できないままに、抱え込んで進むことだ。
これが、『風立ちぬ』の底流に僕が聴きとった宮崎監督の悲劇精神である。
これまでの宮崎駿監督の作品は、どれも海外でも高く評価されている。しかし、海外で高く評価されたのは、宮崎映画が日本的であるよりも世界的だったからだと思う。「ナウシカ」「ラピュタ」「魔女」「ハウル」然り。
たしかに、「トトロ」や「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」は、日本的なアニミズムの世界を描いている。しかし、こうしたアニミズムに対する海外からの評価には、しばしば「エキゾチックさ」に対する好奇の目線が混じる。つまり、アニミズムそのものではなく、「ハラキリ、ニンジャ、ゲイシャ、フジヤマ」の延長線上で「千尋」などが高く評価された気がしなくもない。
でも、『風立ちぬ』には、西洋に学び、追いつこうと努力した時代の日本の姿が結晶している。宮崎監督の映画としては初めて、「日本的ななにか」を「エキゾチック」抜きで海外に伝えられる作品になっていると思うのだ。ゆえに、これまでの作品に比べて海外からの評価は低くなることも十分に予想できる。
また、この作品は日本での評価も低くなるかもしれない、とも思う。
なぜなら、今の日本は、悲劇精神を理解しづらい状況になっているような気がするからだ。
小林秀雄の「悲劇について」(昭和26年初出)は、こんな文章で締めくくられている。
「この短いお話では、現代は不安の時代であるが、悲劇の時代ではなさそうである、そのことがわかっていただけたら十分なのであります。」
宮崎監督は、東日本大震災に「悲劇」を感じていたのだろうが、多くの日本人は「不安」を感じていたのではないか。「不安」を生きる人々に、「悲劇」を生きぬく『風立ちぬ』の感覚はどれほど伝わるだろうか。
でも、正真正銘の悲劇は、時代を超えて残る。そうであるはずだ。
悲劇自体も悲劇を生き抜くのだ。
ゆえに、日本人にとっての『風立ちぬ』は、フランス人にとっての『レ・ミゼラブル』のような意義をもつ作品にこれからなっていく、と僕は思う。
「二郎」が、昭和の日本を語る上で外せないフィクションの主人公として、平安時代の「光源氏」、江戸時代の「弥次さん喜多さん」に、さらにはフランス革命期の「ジャンヴァルジャン」と肩を並べる日がくることを願う。
宮崎監督、素晴らしい作品の数々をありがとうございました。