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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

式年遷宮のすんだ10月のおわり、世間に便乗してお伊勢参りにいってきました。

関西からだと近鉄特急が便利。朝7時に家をでて、10時前に伊勢市駅に到着。

快晴ということもあり、ピリッとした朝の雰囲気が駅前に漂っていた。

伊勢市駅

外宮に向かうと遷宮がすんだばかりの新宮の前はすごい人数の人が参拝待ち。

20分ぐらいまってお参りしたが、前の男の子が「ゲームください」とお願いしていて面白かった。

参拝の時の願い事を定点観測すると時代ごとの傾向が見えてくるのかもしれない。


古いお宮をパシャリ。残念ながら神様は写らず。

内宮

多賀宮は人が多すぎて写真とれず。土宮もパシャリ。

土宮

そのあと月夜見宮もお参りすると、すっかりお昼時。伊勢市駅近くで伊勢うどんをいただく。

だしにつかったもちもちうどんでおいしかった。

伊勢うどん

近鉄電車とバスで内宮まで移動。外宮も混んでいたが、内宮はさらに激混み。

鳥居をくぐって五十鈴川をわたると、すっかり別世界に来た空気感。

昔の人と同じ景色をみているような妙な感覚に包まれた。ここでは時間が止まっている。

五十鈴川

内宮前はもちろんたくさんの人

外宮

なんとかおまいりをすませ、月読宮、猿田彦神社にもいって大満足。

猿田彦神社と内宮の雰囲気の違いが面白い。やはり神様の格の違いか?

おかげ横丁でつまみ食いしながらぶらついているとあっという間に日が落ちてしまった。

たまりしょうゆソフトや、神都麦酒など、ご当地ジャンクを満喫。


夕食は宇治山田駅まえのお寿司屋さんで。新鮮な海の幸がおいしい。

いせ夕食


特急まで時間が少しあったので、電車で伊勢市駅へ。駅前では、ちょどお祭りで

ピカピカした山車がでていた。


いせまつり

電車までの時間が限られていたので、ゆっくりお祭りは見れなかったけれど、

なんか得した気分。帰りの特急では歩き疲れてすっかり寝たおしました。


相方さんとひさびさの二人旅を満喫することができました。

東京でのオリンピック開催決定で、株価上昇とのニュース。

関連して、消費税増税がどうなるんじゃという話題も結構取り上げられている。


大企業のトップはみんな消費税増税に賛成なのかと思っていたら、セブン・イレブンのトップは増税反対とのこと。


たしかに、スーパーに買い物に行くと、たとえ10円でも安い方の商品を選びがちである。その一方で、自動車やら家電やらを買うときは、10円安いかどうかよりは、性能・デザインを重視しがちではないだろうか。


つまり、もともと安い商品を買うときほど、我々は「もっと安く」と思いやすい。別の言い方をすれば、安い商品ほど値崩れしやすいのだ。


どうして、人間はそういう認知をするのかは分からない。脳のクセなのだろうか。

いずれにせよ、消費税の増税で一番影響受けるのが小売業だというのが、なんだか腑に落ちた。


僕は経済のこととかよくわからん。だが、いろんなニュースで、エコノミストと言われる人が「このタイミングで増税しなければ、日本は適切な政策を打ち出せないと思われてしまう」と述べているのを見ると、他の国の投資家からどう思われるかって、そんなに重要なことなのだろうか?と感じてしまう。


ま、3000円の新刊本を買うかどうかで迷ってるレベルの僕にはあまり関係のないことではあるのだが。

良い家電よりも、良質な食品を日々買えることのほうがうれしいと思うこの頃である。

今日の早朝、2020年のオリンピックが東京開催に決まった。正直ほっとした。


事前の報道では、福島原発汚染水問題に海外から厳しい視線が向けられていたとのこと。

もし、今回落選したら、原発の問題が悪者扱いされるだろうことは目に見えていた。


今回無事に東京が選ばれたことで、原発問題は「もう聞きたくない」話題になるのではなく、

むしろオリンピックの安全な開催のために是が非でも立ち向かわなければならない問題になった。


その意味で、僕は、オリンピック東京開催が決まったニュースをうれしく聞いた。


地下水流入対策に国が介入することになり、原子力発電の割合を下げるという首相声明も出た。

最近の政府の動向からは、本気で原発事故に取り組むつもりなのだという姿勢が伝わってくる。

この傾向は、歓迎していいと思う。


話はがらりと変わる。

昨日深夜、NHKのETV特集で、清掃作業員兼画家のガタロさんが取り上げられていた。

ガタロさんは、30年間、商店街の清掃作業員として働きながら、絵を描いておられる。

捨てられていた画材を使い、清掃用具や原爆ドームなど、自分の身近にあるものを描くのだ。


ガタロさんの「わしらの仕事は下向いてする仕事じゃけぇ」という言葉が心に残った。

でも、言葉の字面から受けるイメージとは裏腹に、ガタロさんは陽気に清掃の仕事をされている。

清掃の道具を大切にし、通りかかる人に明るく挨拶しながら、通路やトイレを磨き続ける。

ガタロさんを見ていると、「下向いてする仕事」を誠実に続けることの大切さを感じる。


ところで、「夢を語る人」と、「夢の後片付けをする人」は全く別のタイプのように見える。

不思議なことに、前者はほとんど後者にはなれないが、後者はしばしば前者になれる。


ガタロさんは、後者が前者になる良い一例だと思う。

さて、安倍首相は前者が後者になるという稀なケースになれるだろうか。

宮崎駿監督の『風立ちぬ』を二週間前に見てきた。


正直なところ、腑に落ちた感じはいまだにしない。もやもやしっぱなしだ。感想というようなまとまった仕方で、鑑賞後の感覚が言葉になってくれないのだ。おそらく、これからも腑に落ちない感じは続くだろう。

それはたぶん、この映画が抱える複雑さが、克服しようのない複雑さだからだ。


改めて言うまでもなく、宮崎監督は天下無双の「線の使い手」だ。たとえば風と飛行機を区切っている翼の線。この翼の線は、そのまま自然と人工物の境界線でもある。


美しさというものがあるならば、自然と人間の境界にあるはずである。だから九六式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機そのものが美しいのではない。機体が風と対話しながら飛ぶ姿にこそ、美しさは潜む。映画にでてくる「理想の機体」は、「理想的に引けた線からなる形」のことだ。


もちろん宮崎監督の「線」は、人物、建物、木々、全てを「くまなく」動かしている。宮崎監督的には、生きているということは、動いていることだからだ。


この映画の中の「しぐさ」も素晴らしい。二郎の歩き方、「機関車は爆発しない」という冷静な台詞のトーン、激しい雨のなかパラソルをもって遠く前を見つめる二人の表情など、美しい「しぐさ」がちりばめられている。


しかし、「線」や「しぐさ」の美しさは、いわば断片的な瞬間ごとの美しさだ。一方で、主人公の二郎、菜穂子の織り成す物語は、真に悲しい。美しい瞬間の重なりは、戦争と疾病に翻弄され、悲しくボロボロの人生へと結実する。


二郎の人生には、「夢破れる者の美しさ」があるという人がいるかもしれない。しかし、夢が破れた時の悲しさが、美しさへと変わるには飛躍が必要だろう。悲しいから美しく見えることもあるのであって、その逆ではない。

二郎の人生を「美しい」とするよりも「悲しい」とする感覚の方が本質に触れている。そう僕の感覚は告げている。二郎の人生の物語は、やはり悲劇なのだと思う。


小林秀雄は「悲劇について」というエッセイで、ニーチェの『悲劇の誕生』を引きつつ、こう述べている。


「悲劇は、人生肯定の最高の形式だ、(中略)何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。」


別のエッセイ「政治と文学」でも小林秀雄は戦争という悲劇に言及している。


「失恋した男が、外交の失敗を反省していれば、誰にも異様な感を与えるでしょう。あれほど歴史の必然という言葉が好きだった知識人達が、大戦争は歴史の偶然だったような口のきき方しかできないのである。(中略)私たちは、もしああであったら、こうであったらというような政治的失敗を経験したのではない。正銘の悲劇を演じたのである。(中略)悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残して行くだけだ。」


宮崎監督の『風立ちぬ』は、小林秀雄の意味での「悲劇」に達していると思う。真の悲劇では、懸命に生きた美しい人生の断片が、集積すると悲しい物語になってしまう。「部分的には美しいものが、全体的には悲しい」という構図の複雑さが、この映画を見たときに僕の感じた「もやもや感」を生む原因だったのだ。


人間が精一杯生きるということは、この複雑さを解消できないままに、抱え込んで進むことだ。

これが、『風立ちぬ』の底流に僕が聴きとった宮崎監督の悲劇精神である。


これまでの宮崎駿監督の作品は、どれも海外でも高く評価されている。しかし、海外で高く評価されたのは、宮崎映画が日本的であるよりも世界的だったからだと思う。「ナウシカ」「ラピュタ」「魔女」「ハウル」然り。


たしかに、「トトロ」や「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」は、日本的なアニミズムの世界を描いている。しかし、こうしたアニミズムに対する海外からの評価には、しばしば「エキゾチックさ」に対する好奇の目線が混じる。つまり、アニミズムそのものではなく、「ハラキリ、ニンジャ、ゲイシャ、フジヤマ」の延長線上で「千尋」などが高く評価された気がしなくもない。


でも、『風立ちぬ』には、西洋に学び、追いつこうと努力した時代の日本の姿が結晶している。宮崎監督の映画としては初めて、「日本的ななにか」を「エキゾチック」抜きで海外に伝えられる作品になっていると思うのだ。ゆえに、これまでの作品に比べて海外からの評価は低くなることも十分に予想できる。


また、この作品は日本での評価も低くなるかもしれない、とも思う。

なぜなら、今の日本は、悲劇精神を理解しづらい状況になっているような気がするからだ。
小林秀雄の「悲劇について」(昭和26年初出)は、こんな文章で締めくくられている。


「この短いお話では、現代は不安の時代であるが、悲劇の時代ではなさそうである、そのことがわかっていただけたら十分なのであります。」


宮崎監督は、東日本大震災に「悲劇」を感じていたのだろうが、多くの日本人は「不安」を感じていたのではないか。「不安」を生きる人々に、「悲劇」を生きぬく『風立ちぬ』の感覚はどれほど伝わるだろうか。


でも、正真正銘の悲劇は、時代を超えて残る。そうであるはずだ。

悲劇自体も悲劇を生き抜くのだ。


ゆえに、日本人にとっての『風立ちぬ』は、フランス人にとっての『レ・ミゼラブル』のような意義をもつ作品にこれからなっていく、と僕は思う。


「二郎」が、昭和の日本を語る上で外せないフィクションの主人公として、平安時代の「光源氏」、江戸時代の「弥次さん喜多さん」に、さらにはフランス革命期の「ジャンヴァルジャン」と肩を並べる日がくることを願う。


宮崎監督、素晴らしい作品の数々をありがとうございました。

いや、嫌いじゃないんですよ。プレゼンテーション。

短い時間で、その人がポイントだと思った点に絞って、

簡単で、明確な説明を聞ける。そりゃなんたって、便利。


TEDなるサイトが、やたらと人気を集めているのも当然であろう。

手軽に有名人のアイデアを、その人自身の言葉を通して聴けるのだから。


しかし、文系の大学院にいた時、ゼミでも、学会でも、パワーポイントで

プレゼンテーションをしている例にお目にかかったことがほとんどない。

写真が必要な発表では、パワーポイント使っている人もいたけど。


思想系の発表では、理系なら余裕で論文一本以上に相当する文章で

埋め尽くされた「ペーパー」が配布されるのが普通だった。


「短い時間でエッセンスを絞って伝える」ことが可能であるということは、

裏を返すと、そのアイデアは、人生を180度変えるような、根本的な思考の逆転を

引き起こすようなものでは、ほとんどありえない。


「お!そりゃ面白い!」というのは、驚きとしては可愛いもんである。

もう言葉がでないくらい、いままでの自分の考え方を全否定しないとやってられなく

なりそうなくらい驚いたときは、「面白い」とは感じない。そんな余裕はない。


「ポイントを絞る」という言い方も、個人的にはあまり好きではない。


本当に大事な主張というのは、全部を説明しなければ、いや、

自分なりに全部を説明したとしても、うまく伝えることが難しいような、

その意味で、ポイントを絞るなんてことが不可能なようなものではないのか。


「プレゼンテーション分かり易いね」というほめ言葉は、僕にはこう聞こえる。

「知識は増えたよ、ありがとう。でもけど、物の見方までは変わりませんでした」


「プレゼンテーション面白かったよ」というほめ言葉には、まだ救いがある。

プレゼンテーションの内容ではなく、手法についてコメントしている可能性があるからだ。

その辺は、長くなるので、また今度。


いや、たぶんもう書かない。書くほどのことではないのだから。


【9月4日追記】

人の心をつかむ話し方、ストーリーの組み立て方を紹介する本は書店で大プッシュ。

学校の先生も、「どうしたら楽しく、分かりやす授業ができるか」に知恵を絞っているとのこと。

おそらくプレゼンという手法の問題が、内容うんぬんよりも重視されているのだと思う。


たしかに、内容を整理して、どう巧く伝えるかに知恵を絞るのは、聞く側としてはありがたい。

でも、僕の乏しい経験から言うと、「なんだかすっきり分かった感じがしない話」のほうが、

不思議と記憶に残りやすい。


相手に理解してもらい、ついでに長く覚えていてもらうためには、「分かりやすい話」に

ちょびっと「分かりにくいネタ」を仕込んでおくのが、なんだかよさげな気がしている。