10代最後のほうで、トルストイの『人生論』を読んだ記憶があるが、内容は忘れた。30代になったいまでは、人生論といわれると、なんだか説教くさそうで、三木清のこの小さな文庫本もずっと敬遠していた。
しかし、先日部屋を掃除していたときに目についたので、三木清の『人生論ノート』(新潮文庫)を読んでみると、驚くべき記述に出会った。
■「瞑想は思想的人間のいわば原罪である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。宗教的人間にとってと同様に、思想的人間にとっても、救済は本来ただ言葉において与えられる。」(p.82)
末尾の一文にしびれた。もちろん「救済は言葉による」という主張を正確に理解するにはもっと丁寧に解読しなければならないのだろうけれど、久々に「あ、この人は僕が考えているのと同じ方向性を見ている」と感じられたのである。調子にのって読み進めていくと、さらに色々と興味深い文章にぶつかった。
■「神の弁証法は愛と憎みの弁証法ではなくて愛と怒の弁証法である。神は憎むことを知らず、怒ることを知っている。神の怒りを忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった。」(p.54)
⇒本当の宗教思想は、軍国主義でも平和主義でもない。井上良雄さんの「キリスト教と平和」という素晴らしい論文と、三木清のこの文章には共通点があるような気がする。
■「生理学のない倫理学は、肉体をもたぬ人間と同様、抽象的である。」(p.54)
⇒医学を学ぶものからみると、いまの人々は「からだ」よりも「こころ」を見過ぎな気がする。患者さんの立場からすると医者は「からだ」ばかり見て「こころ」を見てくれないのかもしれないが。良医とは、治療の狙いに応じて、「からだ」へのアプローチと「こころ」へのアプローチを使い分けるものなのだろう。すこしずれるかもしれないが、デカルトの『情念論』では心理学と生理学が倫理学と分かちがたく結びついているような気がする。デカルトは元祖心身二元論者とされているが、本当は違うのではないかと最近の僕は思っている。
■「懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない」(p.29)
⇒デカルトにおいて、世界への懐疑はどこまでも「方法論的」であった。別の言い方をすれば、デカルトは懐疑している際も、疑っている自分を信じていた。鵜呑みにするのと、懐疑的であること、当然ながらリスクは後者が低い。しかし、なんでもかんでもまず懐疑してしまうと、本当に良いものに触れ、理解することの妨げになることがある。本当に良いものは少ない。だが、本当に良いものを掴めなれば、宗教思想を学ぶことの意義は無に等しい。いまの神学、宗教哲学に必要なのは、三木清のいうような「節度ある懐疑」、僕なりの言い方をすれば「方法論的信仰」ではないだろうか。残念なことに、この分野で、本物を掴んでいる研究者は絶滅危惧種となっている。奮起せねば。
■「創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである」(pp.43-44)
⇒鶴見俊輔さんはとあるインタビューでホワイトヘッドの「Exactness is a fake.」という言葉を引用されている。鶴見さんは長い間「正しさ」を振りかざす者に対して戦ってきた人である。その点について僕は鶴見さんを尊敬しているのだが、三木清的には、ホワイトヘッドの言葉はむしろ逆に言うべきだ。すなわち、フェイクこそが正確なのである。だからたぶん、鶴見さんと三木清は逆の方向性をもつ思想家なのだろう。
■「宗教の秘密は永遠とか人類とかいう抽象的なものがそこでは最も具体的なものであるということにある。」(pp.49-50)
⇒すぐれた思想家には、からなず抽象と具体の反転、形式と中味の反転、虚構と真実の反転がある。宗教思想なら神と人の反転がある。この反転がない場合、かなりの高確率で思想家として読む必要性がない、というのが僕の経験則である。
■「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初としての原理は不確実なものである。」(p.30)、 「すべての懐疑にも拘らず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成作用である故に、単に在るものでなく、作られるものである故に。」(p.30)
⇒これは、確実と不確実が反転する前の文章なのか、それとも反転後の文章なのか、僕の能力では判断がつかない。ただ、「変化するものが確実であり、変化しないものは不確実なのだ」という三木清の主張は、人間が人間として語る哲学の言葉としてなら自然に理解できる。果たして神学からみて、三木哲学の表現はどう捉えられるか。これからの課題である。
最も強烈に印象に残った箇所を最後に紹介したい。文庫本最後にある「個性について」という論文の中の一文である。
■「私は偉大な宗教家が「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といったとき、彼がキリストになったのではなく、彼が真に彼自身になったのであることを理解する。私の個性は更生によってのみ私のうちに生れることができるのである。」(p.144)
この三木清の洞察に、結論的には僕はまったくもって同意する。しかし、若干「キリスト」という言葉の意味について反論がある。
三木清の言っている「キリスト」はおそらく歴史上のイエスという個人を示していると考えられる。一方、偉大な宗教家(パウロ)の言う意味の「キリスト」は、歴史上のイエスのことを示しているのではない、と僕は思う。
ゆえに、自分がキリストになるということと、自分が真に自分自身になるということは、三木的には異なっているけれど、パウロ的には同じ事態を差している。そういう意味での「キリスト」をパウロは考えている。
その意味で、三木清のパウロ書簡の読みは、やや甘いと思う。しかし、三木清とパウロは、「キリスト」の意味について異なっているものの、最終的には同じ根源を見ているのである。
『人生論ノート』を読んでから振り返ると、『哲学入門』はおそろしくシンプルな書物である。読む順番を間違えた。『哲学入門』はきっちり書かれているだけに、隙もないが、飛躍が乏しい。思索の魅力は、確信を伴った飛躍にある。その意味で、本当のことを厳密に表現するとしばしば退屈になる。本当のことをあたかも嘘のような飛躍で語る『人生論ノート』の文体こそが、三木清の思索をより味わい深いものにしているような気がする。
医学にせきたてられつつ、僕も三木清に負けずに考えを練っていこうと思う。「急がば回れ」である。