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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

実技試験が無事終わり、冬のスポーツ祭典を拝見している。


練習の成果がそのまま出せた人、

練習の成果以上のものが出せた人、

練習の成果が十分に出せなかった人。

涙あり、笑いあり。色々なドラマがあった。


しかし、僕はドラマよりも、アスリートの動きに吸い寄せられてしまう。

一流アスリート達の身体の動きには、見ている僕をハッとさせる何かがある。

上手な人の動きは滑らかで、柔かく、美しい。すごい。


だからというわけではないが、なかなか勉強も手につかず、

ついついテレビの中継放送を飽きることなく見入ってしまう。


ただ一つ、へそ曲がりな僕が気になることがある。


「自分らしい○○ができるように」という言葉だ。


日本人は、いつから「自分らしさ」を大切にするようになったのだろうか?


仏教では、「自分らしさ」は「無」でしかない。自己は空なる器でしかない。

基督教では、「人間から見た自分」は空虚。「神から見た自分」を真実とする。

どちらの考え方も、「自分にとっての自分」には重みを見出さない。

そういう感覚の方が、僕にはしっくりくる。


うまくいっても、失敗しても、どちらも「自分」である。

失敗した自分を、自分らしくないと貶めるのは可哀相だし、

思いのほか上手くできた自分を、自分らしいと見なすのは傲慢だ。


「自分らしく」が、もしも「練習通りに」とか「自分の特徴を生かして」という

意味なら、僕は、あまり「自分らしさ」にこだわりたくないと思う。


なぜか。


つまらないからだ。


僕の乏しい音楽の経験によると、音楽をやっていて、最も楽しいのは、

自分の実力以上のパフォーマンスがなぜかできたように思える瞬間である。

「自分らしからぬもの」が自分のレベルを上げてくれている感覚。

この感覚を持てる瞬間は、楽しい。


日々の練習は、完璧に何かこなせるようになるためにするのではない。

「自分らしからぬもの」を受け入れる器を磨いておくために鍛練するのだ。

「自分らしからぬもの」を察知する感覚を研ぎ澄ますために繰り返すのだ。


僕はそう思っている。


もちろん、めったに「自分らしからぬもの」はやってきてくれない。

でも、「自分のベストのパフォーマンスを目指すこと」よりも、

「自分のベスト以上のパフォーマンスを目指すこと」のほうが、

失敗したときでも、なぜかパフォーマンスが高いのである。


どうしてそうなるかは分からない。


ただ、経験的にも、大風呂敷を広げておいた方が、あとあと面白い展開を

見せることが多かった。それだけは言える。


スポーツの祭典は、元来ギリシャの神々を楽しませるためのイベントである。

まるっきり「神楽」である。


だからこそ、「自分らしからぬ自分」、すなわち「神」との喜ばしき出会いが

たくさんのアスリートにあらんことを。


僕はそう願ってやまない。

どうやらだいぶ前に年が明けてしまったようで。

高校の友人から「今年は年の明けすぎないうちに出せました」という年賀状がとどいてニヤリ。


大学の試験に追われて、たまにしか記事を書けていないのだが、一応年が変わったということで、

記録できていないけれど書いておいた方がいいと思った去年の活動について覚書いておく。


■読書

昨年は大学の試験に追われて、ゆっくり本を読む時間がなかなかとれなかったのは本当に残念。

僅かな時間の合間をぬって読んだ本は以下のような感じ。(すでに記事にしたものを除く)


(1)手放しでむちゃくちゃ面白かったと言える本

・カール・バルト『ロマ書講解 上・下』 

・小川修『パウロ書簡講義録 ローマ書講義 2巻・3巻』 

→なにはともあれプロテスタント神学を学ぶ以上、バルトは外せない。小川修先生は、バルトも滝澤克己も精確に理解していた稀有な方。どちらもすこぶる面白かった。内容についてのコメントはまた改めて。


・河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない』

→むかしは河合隼雄さんの本、というか心理学一般に、「そうとも言えるかもしらんけど、だからどうしたの?」と思っていた。しかし、臨床医学を学ぶ中で、ある種の治療の政治学として見直してみると、河合隼雄に学ぶことが多いと感じるようになった。僕もだんだん成長してきたのだろうか。


・古在由重・丸山真男『一哲学徒の苦難の道』

→西田幾多郎が「やはりヒトラーが勝つ」と言っていたという戸坂潤の証言、上智大学が哲学者たちにはかった便宜など、歴史的に貴重な情報が詰まった一冊。


・山口晃『ヘンな日本美術史』

→美術をかしこまらずに、専門的になりすぎない見方をしてもいいじゃないかい?という本。「自転車に乗れるようになると、乗れなかった前にはもう戻れない」という言葉に、創作者の気概を感じる。


・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

・ドナルド・キーン『日本人の戦争 作家の日記を読む』

・池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

→どれも「へぇ~」を連発した本。加藤さんの本では、歴史を分析・反省した結果に引っ張られすぎて、現在すべき決断をあやまることがあるということ、キーンさんの本では、米のB29を見て手を振っていたという日本人の飛行機愛、池谷さんの本では、自由とは脳の揺らぎを絞り込む過程だという指摘が印象深い。


・吉川英治『鳴門秘帖』

→司馬遼太郎の本の中で紹介されていたので、読了。連載小説だったせいだろうか、すさまじいテンポ感。つぎつぎ展開される場面に圧倒されて一気に読み終えた。「追分」の意味を教わったし、最近では見かけない漢字も多く使われていて、昭和の大衆時代小説のハイレベルさがよくわかった。最近の大河ドラマの不調をみると、吉川英治や子母沢寛、司馬遼太郎の原作が大河ドラマになっていた時代をつい思い出してしまう。ちなみにこの作品の畳みかけ感は、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』になんだか似ているように思われた。


・宗左近『私の死生観』

→この本を読んで久々に泣いた。今まで妄想の世界にしか思えなかった『往生要集』の意味がわかってきた気になれたこと、丸山真男の民主主義論は「自由・博愛・平等」を神なしで実現しようとしたのだという指摘が突き刺さった。「死者が生者を鎮魂する」、「夜の虹」の二篇もみごとな直球勝負である。「思想」よりももっと生々しい「思い」が溢れた作品集だった。


(2)面白かったけれど、批判的に読んだ本

・佐藤優『はじめての宗教論 右巻・左巻』→ヒトの生命よりも重い価値がおかれる信仰でなければ本物の信仰ではないという議論には賛同。西田幾多郎にはシュラアマハーの影響があるという小林敏明の指摘の紹介も興味深かった。ただし、聖書の神話的エピソードは「夢の中の話」だという佐藤さんの解釈には疑問。それをいうなら聖書は全部正しい、あるいは全部夢の中の話のどちらかであるべきだ。自分の解釈に合わないからと言って聖書の一部を夢オチにしたり、後代の付け加えにしてしまうということは、聖なる文章を読むときの方法論としてはいただけない。本居宣長やスピノザがそうしたように、聖なる文書が理解できない時には、文書ではなく、自分の理解のほうを疑うべきなのだ。聖なるものへの態度とはかくのごとしである。


・橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』、『おどろきの中国』→宗教を機能面から解析するとこうなるという意味で勉強になった。それはそれで良いが、それは一つの分かり方に過ぎないことは読む側がわきまえなくてはならない。


・河合隼雄・中沢新一『ブッダの夢』、『仏教が好き!』→勉強になった箇所も多かったが、やはりキリスト教やヨーロッパに対する理解が甘い気がする。エラノス学会に参加しているような欧米の学者は、基本的にキリスト教に確信をもてないが故に他のアイデアを求めようとして来ているのだから、そうした学者たちのキリスト教観を西洋のコンセンサスとするのはよくない。また、井筒俊彦を「メタ宗教」を目指した人だと解釈する中沢新一の感覚には賛同できなかった。井筒俊彦は宗教研究者ではなく、自己について考えていた哲学者とみなすべきだろう。一つの宗教を全肯定できるまでの理解に達する以前に、他宗教と比較してみても、百害あって一利なしである。


・内田樹・釈徹宗 『現代霊性論』→内田・釈両先生は、宗教の本質は思想ではなく儀礼にあるとおっしゃる。果たしてそうか?教義も一種の儀礼ではないか?


・中田整一『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』→軍隊にとって作戦前の訓練が大切だということ、アメリカ軍は人命を失うことを徹底的に恐れていたという指摘が面白かった。モノを大事にするのが日本の美徳かもしれないが、人命と同じくらいまで飛行機や艦船を大切にしたことが日本軍の悲劇になったかと思うと身につまされる。


・その他

司馬遼太郎さんの対談集をいくつか読んだのが印象に残った。小説はもっぱら司馬さん作品。『夏草の賦』、『戦雲の夢』、『殉死』を読んだ。個人的には『殉死』がヒット。陽明学が日本に与えた影響の大きさに驚いた。


■映画

『風立ちぬ』以外には、『永遠の僕たち』が良かった。またそれはいつの日か記事にすることにしよう。

その他に劇場で観た作品がない!!やはり劇場から足が遠のいてるな…。


■音楽

昨年末に大瀧詠一さんが亡くなった。大瀧さんは、「日本のロック」について、そんなものあるのか、あるとすればどんな形式になるのかという根本的な点から考えていた凄い人である。大瀧さんの「分母分子論」は、「日本のロック」だけでなく「日本の基督教」にも当てはまるような気がして面白い。


以上、思いつくままに。


今年はいよいよ臨床実習が始まる。どんな一年になるのか、楽しんでいけるといのだが。

ちまたでは「特定秘密保護法案」という不思議な名前の法律が話題になっている。


僕は、外交、政治、言論の自由といったものとは遠いところで生きている。だから、この法案の内容についてもあまり興味をもてない、というのが正直なところである。


しかし、変だなぁとと思うことがある。「国家にとって重要な秘密を法律によって守る」という発想だ。なぜか。


例えばどこかの国が、「秘密を守れない国には、うちがもってる貴重な情報、あげないよ~」と言ってきたとする。そのとき、日本の外交官は「わが国にはこんな立派な秘密保護のための法律があるので、大丈夫です。教えてください!」というのだろうか。残念ながら、この日本外交官の言葉に説得力はないと僕には思われる。


もし、知り合いから「我が家にはこんなしっかりした家訓があるんだ。だから僕のことを信頼してね」と言われたらどう思うだろうか。僕なら、この知り合いの家庭の教育方針に疑問を抱くだろう。相手が信頼できるかどうかは、僕と相手のこれまでの付き合いの積み重ねから次第に形成されてくるのであって、相手の家の家訓で決まるものではないからだ。むしろ、こんなことを言ってくる知り合いに、僕なら不信感を抱く。


精神医学者である土居健郎によれば、人格の成熟度を測る指標の一つに「秘密を保持し続けることができる」というものがある。人格を国家に読みかえることがそれほど大きな飛躍でないならば、外交上の秘密を守るということは、法律よりも道徳・良識の領域で何とかすべきことなのだ。


にも関わらず、法律化したということは、諸外国に対して「政府はやるだけのことをやりました。秘密漏洩があったとしたら、国としての意志ではなく、もらした一個人の責任です」といつでも相手国に弁解できるようにしたかったとしか思えない。


「いたしかたなかった」と言い訳をしつづける政府が戦争に踏み切ったという経験を日本はもつ。これを丸山真男は「無責任の体系」と喝破した。政府が秘密漏洩の責任を国民に転嫁するという今回の法律は、かつての「無責任な政府」を思い起こさせて、背筋が寒くなる。考え過ぎであってほしいのだが。


外交に関する秘密を本当に守りたいのであれば、何が秘密になっているのかだけでなく、秘密が存在していること自体、秘密の守り方も秘密にしておく方がよい。この当たり前のことに気がつかない人たちが、政治を担っている愚かさは計り知れない。常識を教えることはできない、ということも常識である。だから、政治家の方々には、自力で分かってもらうしかないのだが、はたしてどうだろうか。


大学の昼休みに、近くの県立図書館まで本を返しに行ったら、とてもきれいな紅葉に行き当たった。
Nothingness of Sealed Fibs-文化ソーン紅葉2

今回は、菅円吉『バルト神学』を返し、菅円吉『菅円吉論文集 バルト神学研究』を借りてきた。この著者の明快さ、正確さは信頼できる。そう僕の常識が告げている。


Nothingness of Sealed Fibs-文化ゾーン紅葉1

太平洋戦争を経験した世代の長寿を支えてきたことこそ、僕は、唯一手放しの称賛に値する医学の功績だと思う。その世代が次々に亡くなっていっている今、戦争を経験していない私たちにどれほどのことができるだろうか。やはり人間は、自分の身で経験してみないと現実の悲惨さを理解できないのだろうか。戦争世代がいなくなってしまう前に、若い世代が考えておかなければならないことがあるはずだ。


なぜ紅葉は美しいのかという秘密に心をうたれながらも、僕はついついそんなことを考え込んでしまっていた。

10代最後のほうで、トルストイの『人生論』を読んだ記憶があるが、内容は忘れた。30代になったいまでは、人生論といわれると、なんだか説教くさそうで、三木清のこの小さな文庫本もずっと敬遠していた。


しかし、先日部屋を掃除していたときに目についたので、三木清の『人生論ノート』(新潮文庫)を読んでみると、驚くべき記述に出会った。


■「瞑想は思想的人間のいわば原罪である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。宗教的人間にとってと同様に、思想的人間にとっても、救済は本来ただ言葉において与えられる。」(p.82)


末尾の一文にしびれた。もちろん「救済は言葉による」という主張を正確に理解するにはもっと丁寧に解読しなければならないのだろうけれど、久々に「あ、この人は僕が考えているのと同じ方向性を見ている」と感じられたのである。調子にのって読み進めていくと、さらに色々と興味深い文章にぶつかった。


■「神の弁証法は愛と憎みの弁証法ではなくて愛と怒の弁証法である。神は憎むことを知らず、怒ることを知っている。神の怒りを忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった。」(p.54)

⇒本当の宗教思想は、軍国主義でも平和主義でもない。井上良雄さんの「キリスト教と平和」という素晴らしい論文と、三木清のこの文章には共通点があるような気がする。


■「生理学のない倫理学は、肉体をもたぬ人間と同様、抽象的である。」(p.54)

⇒医学を学ぶものからみると、いまの人々は「からだ」よりも「こころ」を見過ぎな気がする。患者さんの立場からすると医者は「からだ」ばかり見て「こころ」を見てくれないのかもしれないが。良医とは、治療の狙いに応じて、「からだ」へのアプローチと「こころ」へのアプローチを使い分けるものなのだろう。すこしずれるかもしれないが、デカルトの『情念論』では心理学と生理学が倫理学と分かちがたく結びついているような気がする。デカルトは元祖心身二元論者とされているが、本当は違うのではないかと最近の僕は思っている。


■「懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない」(p.29)

⇒デカルトにおいて、世界への懐疑はどこまでも「方法論的」であった。別の言い方をすれば、デカルトは懐疑している際も、疑っている自分を信じていた。鵜呑みにするのと、懐疑的であること、当然ながらリスクは後者が低い。しかし、なんでもかんでもまず懐疑してしまうと、本当に良いものに触れ、理解することの妨げになることがある。本当に良いものは少ない。だが、本当に良いものを掴めなれば、宗教思想を学ぶことの意義は無に等しい。いまの神学、宗教哲学に必要なのは、三木清のいうような「節度ある懐疑」、僕なりの言い方をすれば「方法論的信仰」ではないだろうか。残念なことに、この分野で、本物を掴んでいる研究者は絶滅危惧種となっている。奮起せねば。


■「創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである」(pp.43-44)

⇒鶴見俊輔さんはとあるインタビューでホワイトヘッドの「Exactness is a fake.」という言葉を引用されている。鶴見さんは長い間「正しさ」を振りかざす者に対して戦ってきた人である。その点について僕は鶴見さんを尊敬しているのだが、三木清的には、ホワイトヘッドの言葉はむしろ逆に言うべきだ。すなわち、フェイクこそが正確なのである。だからたぶん、鶴見さんと三木清は逆の方向性をもつ思想家なのだろう。


■「宗教の秘密は永遠とか人類とかいう抽象的なものがそこでは最も具体的なものであるということにある。」(pp.49-50)

⇒すぐれた思想家には、からなず抽象と具体の反転、形式と中味の反転、虚構と真実の反転がある。宗教思想なら神と人の反転がある。この反転がない場合、かなりの高確率で思想家として読む必要性がない、というのが僕の経験則である。


■「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初としての原理は不確実なものである。」(p.30)、 「すべての懐疑にも拘らず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成作用である故に、単に在るものでなく、作られるものである故に。」(p.30)

⇒これは、確実と不確実が反転する前の文章なのか、それとも反転後の文章なのか、僕の能力では判断がつかない。ただ、「変化するものが確実であり、変化しないものは不確実なのだ」という三木清の主張は、人間が人間として語る哲学の言葉としてなら自然に理解できる。果たして神学からみて、三木哲学の表現はどう捉えられるか。これからの課題である。


最も強烈に印象に残った箇所を最後に紹介したい。文庫本最後にある「個性について」という論文の中の一文である。


■「私は偉大な宗教家が「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といったとき、彼がキリストになったのではなく、彼が真に彼自身になったのであることを理解する。私の個性は更生によってのみ私のうちに生れることができるのである。」(p.144)


この三木清の洞察に、結論的には僕はまったくもって同意する。しかし、若干「キリスト」という言葉の意味について反論がある。


三木清の言っている「キリスト」はおそらく歴史上のイエスという個人を示していると考えられる。一方、偉大な宗教家(パウロ)の言う意味の「キリスト」は、歴史上のイエスのことを示しているのではない、と僕は思う。


ゆえに、自分がキリストになるということと、自分が真に自分自身になるということは、三木的には異なっているけれど、パウロ的には同じ事態を差している。そういう意味での「キリスト」をパウロは考えている。


その意味で、三木清のパウロ書簡の読みは、やや甘いと思う。しかし、三木清とパウロは、「キリスト」の意味について異なっているものの、最終的には同じ根源を見ているのである。


『人生論ノート』を読んでから振り返ると、『哲学入門』はおそろしくシンプルな書物である。読む順番を間違えた。『哲学入門』はきっちり書かれているだけに、隙もないが、飛躍が乏しい。思索の魅力は、確信を伴った飛躍にある。その意味で、本当のことを厳密に表現するとしばしば退屈になる。本当のことをあたかも嘘のような飛躍で語る『人生論ノート』の文体こそが、三木清の思索をより味わい深いものにしているような気がする。


医学にせきたてられつつ、僕も三木清に負けずに考えを練っていこうと思う。「急がば回れ」である。

またしても、10月1日がやってきた。某ラーメンチェーン店の祭典。一年は早い


もう30代にはいり、体も衰え、気力も萎え、ラーメンをほおばって、苦しんで、お金を払って、なんにもいいことがないような気のするイベント。今年はどうだったのか?


一週間前ぐらいに、いつも一緒に回っている後輩から「今年はどうしますか」とメール。メールの二行目には「なんにもしないというのさみしい気がします・・・」とあった。去年さんざん僕が、「もういろんな意味で、きついな」と漏らしていたので、後輩としても気を使ってくれたのであろう。


幸いなことに、その後輩は、昼3時から大学のTAがあるため、昼三時までの限定参加とのこと。しめしめ。男子たるもの、こちらから「はい、やめます」と言い出すわけにはいかないが、相手に仕事あるというのであれば、いたしかたない。


当然のように、「そうか。お昼だけとは残念!でも昼だけで最低4杯は食べたいね」と虚栄にみちた返信を送る始末。


というわけで、この期におよんで、アラサーのおっさん二人で、ラーメンめぐりツアー開始である。はからずも、うってつけの快晴にめぐまれ、もはや名誉ある撤退はありえない。JRと地下鉄を乗りついで三条京阪前までいき、そこからレンタルチャリで北上した。


11:00に営業開始直後の銀閣寺前店に集合。こってり一杯を秒殺。このお店は昔のギラギラした内装がなくなって、なんだかずいぶんおとなしく、こぎれいな雰囲気になっているのだが、スープの気合いだけは相変わらず。今後も続けてもらいたいなと願う。

Nothingness of Sealed Fibs-銀閣寺店

お次は後輩の案を採用して、今出川店へ向かう。11:30到着。なんとこちらはD大学の学生さんが行列をなしていてびっくり。10分ほど並んでから入店し、こってりに食らいついていると、女子学生も行列に加わり始めたのが見えてなおびっくり。いまどきの女性はとても味覚がタフなようで。二杯目ということで余裕の完食。店をでると日差しの強さがこたえる。

Nothingness of Sealed Fibs-今出川店


お次は、すこしでも杯数を稼ごうと久々の新京極店へ。ここは店舗が小さく、席数がすくないので、12:30に到着したときにはすでに戦場状態であった。「にんにく入り」と「にんにく抜き」は希望を聞かれるけれど、かなりの確率でかなえられないというリスキーな状況ながら、こってりスープのこってり度はさすが。なぜか横浜家系の味わいがしたのだが、気のせいだろうか。ややしんどいながら、素早く完食。
Nothingness of Sealed Fibs-新京極店

新京極店のやや家系スープとチャーシューが妙にお腹にこたえて、気持ち悪くなってきた。時間を稼ぐのと、自転車走行禁止区域だったこともあり、チャリをおりて押しながら南座店を目指した。13:10入店。
Nothingness of Sealed Fibs-南座店
南座店は、めずらしく店の外の自販機で食券を買うスタイルである。無意識に前のお客さんと同じボタンを押してしまったようで、気が付いたら「こってり」ではなく、ややあっさりめの「屋台の味」を選んでしまっていた。無念。でも、新京極の家系スタイルにやられてしまった胃には、「屋台の味」のやさしさが染みる。細麺が頼めたのもありがたい。潤いの一杯となった。


今回のラストは、知恩院前店。すでにお腹の膨満感は限界に達し、あまりラーメンと向き合いたくない気持ちが芽生えていたのだが、南座店と知恩院前店は近い。14:15にもうひとりの後輩がやってくるということで、彼を待とうという名目のもと、店のまえで30分ぐらいだべってお腹がなんとかなりそうなのを待った。後輩到着とともに入店。こってりをいただく。

Nothingness of Sealed Fibs-知恩院店

さすがに知恩院前店のクオリティーはハイレベル。おいしいのだが、お腹が膨れているのでなかなか飲み込めない。もぐもぐしているうちに、だんだん麺の炭水化物が消化されて甘くなってきた。不幸中の幸いとでもいうべきだろうか。おなかはしんどいけど、ラーメンはおいしい。複雑である。

とはいえ、なんとか食べきり、大学へもどる後輩たちをみおくって、僕は帰途に就いた。

途中、ブックオフをはしごしてお腹をこなしたおかげで、夕方、相方さんが帰ってきたときには、ケロッとしていられた。


半分、卒業を確信した今年。来年はどうなるだろうか。メンバーが集まるうちは、やりそうな気もするが。


中井久夫先生によれば、戦いは始めるよりも終えるほうが難しいとのこと。おっしゃるとおりです。