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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

このところの暑さを見るに、早くも人生何度目かの春が終わってしまったようだ。

初めて京都に住み始めたころから考えると、もう干支が一回りしたことになる。


今年の春は、我ながら珍しく色々と出かけることができたので簡単に記録しておく。


まずは3月末。歌の仲間と行った円山公園のお花見。出店もでていて賑やか。

平日の夜だったせいか学生さんが多かったのだが、別に騒がしいわけでもない。

適度に活気がある程度の、ちょうどよい花見になった。
Nothingness of Sealed Fibs-円山公園


お次は相方さんとなんとなくJRに乗り、なんとなく適当に行き先を決めて着いた石山寺。

Nothingness of Sealed Fibs-石山寺

4月上旬だったので、人はまばら。梅は終わりかけ、桜は5分咲きという感じだったが、

山肌に沿った伽藍の落ち着いた雰囲気が良し。素敵な寺院である。
Nothingness of Sealed Fibs-京阪電車

帰りの京阪電車。遊び心がよし。


5月の連休に、京都の神護寺で寺宝特別公開があるということで、出陣。

阪急嵐山駅前で相方さんとレンタサイクルを借りて久々のサイクリング旅。

嵯峨野をすり抜け、清涼寺をちら見し、神護寺を目指して北上していたのだが、

だんだん道が急な上り坂になってきたので、体力的に高雄行きを断念。

坂をさけているうちに広沢池に出たので、そのまま大覚寺、直指庵を拝観した。


Nothingness of Sealed Fibs-直指庵

直指庵のお堂からみた庭の様子。言葉にするまでもなく、美しい。


最後にしめとして、嵐山のあだしの念仏寺へ。

Nothingness of Sealed Fibs-念仏寺

嵯峨野は本当に気が抜けない。油断していると、ふと見上げた景色に圧倒されてしまう。

古都の文化力炸裂である。


5月の末には、阪急電車の割引乗車券をもらったので、相方さんと箕面の滝見物へ。
Nothingness of Sealed Fibs-箕面滝

阪急電車の箕面駅から歩くこと40分くらい。かなり日差しの強い日だったけれど、

豊かな緑が日陰を作ってくれていて、ちょうどよいハイキングになった。

理科系の友人に言わせると「空中を飛んでいる筈のないマイナスイオン」ではあるが、

気は心(?)ということで、たっぷり浴びたつもりになって堪能した。

戻る途中で、展望台ありという案内に惹かれ、二人でひぃひぃ言いながら登ってみた。

Nothingness of Sealed Fibs-箕面展望台

絶景かな。体を適度に動かしたので、下山のあとに箕面地ビールをいただく。

食べ物をいただかなかったせいか、たった一杯のビールでかなり酔ってしまった。らしい。


6月半ばに東京から高校以来の友人が上洛。

鴨川の源流にある志明院に行くことに。京都駅前で電動自転車(!)を借り、ひたすら漕ぐ。

街並みが途絶えてからめげずにペダルを踏み続けること40分。ひっそりとした山寺、現る。


Nothingness of Sealed Fibs-志明院

車や自転車で来る人は結構いるらしく、近くには観光客向けの立派なお料理屋さんもあった。

Nothingness of Sealed Fibs-そば屋

せっかくだからと、この立派なお店にはいり、蕎麦御膳をいただいた。満腹。

帰りはひたすら南下。下り坂ばかりでやたら爽快。途中、上賀茂神社に寄り、

烏丸今出川のとらや茶寮であんみつを食べたりしながら、京都駅に戻った。


我ながら今年はよくガンバりました。

だいぶ前になるけれど、NHKでヒッチコック監督の『裏窓』がやっていたので、久々に鑑賞。

もう何回目かになるのだか、一つ新たに気がついた事があったので覚書として残しておく。


ジェームズ・スチュアート演じるフリーカメラマンは、自宅アパートで骨折療養中。

暇つぶしに向かいのアパートを興味本位で覗いているうちに、なにやら事件を目撃する。

このカメラマンには、グレース・ケリー演じる美しい恋人がいるのだが、

独身の自由を謳歌したい彼は、なかなか恋人との結婚に踏み切れないでいるという筋書き。


今回僕がハッとさせられたのは、J・スチュアートが向かいのアパートを覗き見しているときに、

双眼鏡をやめて、望遠レンズ付きの一眼レフに切り替えるシーン。


この単眼(双眼鏡)から複眼(一眼レフ)への切り替えは、二つの意味を持っているのではないか。


一つ目の意味は、主人公と事件との距離感について。

空想のネタ集めのつもりで遊び半分に向かいのアパートを覗いていたときは、双眼鏡。

しかし、本当の殺人事件である疑いが高まって一気に真剣になってから一眼レフになる。


二つ目の意味は、G・ケリー演じる恋人と主人公の関係について。

G・ケリーからのアプローチをのらりくらりとうまく受け流しているときは、双眼鏡。

事件の真相を究明しようと躍起になって、二人の距離が急接近してからからが一眼レフ。


つまり、

双眼鏡は「冷静で醒めた視線」を、一眼レフは「興奮してのめりこんだ視線」を表象しているのだ。

ヒッチコックという監督は、本当に技が細かい。


面白いのは、複眼、単眼のどちらが「よく見える」のかが、状況によって変わるということだ。

『裏窓』の場合、単眼(一眼レフ)になることで、事件も恋人も良く見えるようになっている。

しかし、よく日本の結婚式のスピーチでは、逆の意味の格言が引用される。

「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」(by英国の詩人テニソン)

それとも、このテニソンの格言は『裏窓』的に解釈するほうがよいのだろうか??


では、J・スチュアート演じる主人公とG・ケリー演じる恋人は、この映画の後どうなるのだろうか。

『裏窓』の最後は、両目を閉じて眠るJ・スチュアートをG・ケリーが見守るシーンで幕を閉じる。

「なにも見ない」という高等戦術こそ、ヒッチコックの結論のような気がしてならない。


いやもしかすると、J・スチュアートは寝たふり、G・ケリーも雑誌を読むふりをしているだけで、

実はお互いに「なにも見ていないフリ」をしているだけなのかもしれない。


「文化とは知らない/気づいていないふりをすることである」

(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、『ラカンはこう読め!』 、紀伊国屋書店、2008年、p.8)

などという言葉を思い出してしまう。


映画を撮るキャメラは単眼である。このことが何を示唆するかを考えるのも楽しい。

多分、全てを見通すことと、何も見えないことの間にこそ、人間を魅了する何かがあるのだろう。

僕の修士論文を,唯一人とてもほめてくださった恩師が亡くなって一年過ぎた。

医学生一年目でバタバタしていたときに入院され、お見舞いも行けずじまいだった。

自分の考えの根本的な部分を理解してくれる人、評価してくれる人に出会えることは本当に少ない。

僕は恩師に認めていただけたことで、心が折れそうな時も勉強を続けられた気がする。


相方さんが友人の結婚式で上京するということで、僕も同行。

恩師が眠る多磨霊園へお墓参りに行ってきた。あいにくの雨で人通りが少ない。

多磨霊園

恩師の墓前に参って、これからもしっかり勉強していきますと報告してから、

せっかくなので多磨霊園に眠る有名人のお墓もお参り。


↓明治期の神学者として有名な植村正久。

植村正久

↓京都学派(?)の哲学者、戸坂潤。

戸坂家

↓仏典を漢訳でなく、パーリ語から訳された中村元。

中村元

ほかに、ヘーゲルやフォイエルバッハ研究で有名な船山信一もここに眠っている。


まったく面識もなく、ただ本を通して名前を知っているだけの方々だが、お墓をみると

妙に親しみがわいてくる。


古典的な本を読むということは、いわば亡くなった人の言葉に接することの連続である。

図書館と墓地に似た雰囲気を感じるのは僕だけだろうか。


恩師の講義録が出版されることになり、恩師の言葉も形として残ることになった。

言葉が残ること自体は喜ばしいが、残った言葉を活かすか殺すかは生きている人次第である。

恩師の言葉を引き継いでいくために、僕は恩師と対決する心意気で考え続けていきたい。


生意気な僕はそんな風な仕方で、恩師に遅くなったレポートを出せたらと願っている。


帰り際に相方さんと合流して、念願の蒙古タンメンを頂く。


蒙古タンメン


天下一品とは別の意味で、ラーメンというジャンルからすでに独立している印象。

汗をかきながら、おいしくいただきました。

電王戦で将棋プロ棋士がコンピューターに負け越した。

ついに、コンピューターが人間を超えたという見方があるためだろうか、ものすごい

注目を集めているようだ。でも僕のなかでは、それは正確な捉え方なのか?と感じる。


将棋のソフトは、評価関数を鍛える際に、プロ棋士の棋譜を取り込んでいるという。


人間が強くなっていく過程でも、過去の棋士たちの棋譜を勉強する。

人間もコンピューターも、過去の名局に学ぶことは同じである。

ただ、学ぶ速さ、量は当然コンピューターに後者に軍配が上がる。

しかも、コンピューターの記憶力は、電源が入っている限り永続する。


つまり極端かもしれないが、次のように言い換えることができるのではないか。

今回出場した現役の棋士たちは、過去の棋界の歴史remixと戦っていたようなものだ、と。


むろん、プログラマーの方々の手腕もソフトの強さを規定する要因ではある。

しかし、その手腕は、過去の棋譜をどう評価するかという点で発揮される。

その意味で、プログラマーは、優れた文学に対する評論家に例えられる気がする。


というわけで、僕には今回の対戦が人間vsコンピューターだとは思えなかった。

むしろ、将棋界の歴史の厚みvs一人の棋士という構図だったように思えてならない。


ただ、今回の対戦で痛感させられたことがある。


人間の「独創的なひらめき」は、コンピューターの「しらみつぶしの試行錯誤」で代替できる。

そう、残念だができてしまうのだ。


円城塔さんの『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫)冒頭にこんな一節がある。


「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」


原理的には、ランダムに文字列を紡ぐプログラムが、聖書を書き上げることもありえる。

ただ、その確率はものすごい低かった。これまでは。


でも、もはや「ランダム」という言葉を省かなければならないのかもしれない。

将棋ソフトが過去の名棋士たちの棋譜を取り込んで爆発的に成長したように、

プログラムが様々な文学作品、聖典、論文などをとりこめるようになれば、

深い思想を湛えた文章をコンピューターがサラッと出力することも、そう遠くない気もする。


文字列として出力できる分野の知恵は、理論上はプログラム化できてしまう。

恋文を代筆してくれるプログラム、作曲プログラムとかも、でてきそうだ。


ちなみに、医療においてもコンピューターの存在感はどんどん大きくなってきている。

多くの人が、体の調子が悪い時にネットで検索した経験をもつのではないだろうか。

そのうち、診断、手技、看護などもプログラムに助けてもらうことになりそうだ。


C・ロジャーズのカウンセリング理論なども、プログラム化しやすそうだ。

なんたって、うなずき、相槌、オウム返しの組み合わせで、傾聴できてしまうのだから。

人間の悩みをプログラムが聴いてくれる時代も近いと言わざるを得ない。


神学、哲学の分野ではどうだろうか。

多分、経典、聖典、論文を書くだけなら十分にコンピューターでできるだろう。

でも、神学や哲学は、論文で示されるものがすべてではない。そのはずだ。


ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の有名な一文が示唆してくれる。

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。」


沈黙せよという仕方で語り得てしまっているではないか?

ヴィトゲンシュタインの文章が何らかの主張であるとすれば、この批判は正しい。

しかし、彼が自分自身に言い聞かせているだけならば、この批判は的外れだ。


プログラムには、私の代わりに私であってもらうことはできない。

たとえ、私の代わりに私として生きてもらうことができたとしても。


人間とコンピューターの可能性に唯一の違いがあるとすれば、

このヴィトゲンシュタイン的沈黙の可能性しかないのではないか。


私見では、ヴィトゲンシュタイン的な沈黙は、神学で言う聖霊の在り処である。

コンピューターには「狭き門」はくぐれない・・・そう思うのだがどうだろうか。

G・K・チェスタトンの『正統とは何か』を読了。めちゃくちゃ面白かった。

味をしめたので、大学の図書館から彼の著作集を借り出してきた。

春休みにひも解いてみようと思っている。


彼の議論を読んで考えさせられたのは、「愛は何を願うか」ということである。


チェスタトンは、イギリスを愛することは称揚するが、帝国主義を批判する。

帝国主義は、イギリスという国そのものではなく、イギリスの「国力の強さ」を

愛しているにすぎない、というわけだ。


僕らも、大切な人を愛するというとき、例えば「もっと美しくあってほしい」とか

「もっと活躍してほしい」とかよりも、まずは「心身ともに健康であってほしい」と

願うのではないだろうか。


そういえば、「愛国心」で有名な安倍首相は、国会演説で「世界一」を連呼し、

力強い日本経済の再生を謳っていた。


アベノミクスは絶好調で、株価上昇というイケイケなニュースが飛び交っている。

そういう現状のなかで、「世界一」という言葉は、それほど違和感がない。


しかし、僕はやはりへそを曲げていたいと思う。

日本という国を愛するということは、日本の健康を願うものであってほしいのだ。


世界一の経済力をもてば、それはそれとしてめでたいことかもしれない。

しかし経済が良くなっても、苦しんでいる個人への福祉の重要性は減らない。

また、たとえ経済が悪くなっても、簡単に日本はダメだとあきらめてはならない。


「健全な日本を目指す」という言い方は、政治家の言葉としてなら軟弱かもしれない。

しかし、一人の日本人の常識としては、これほど力強い言葉はないのではないか。


「自虐史観はいかん!!」と強弁する政治家が、「今の日本経済は弱っている!!」

という自虐的経済観からTPP参加に賛成しているという逆説的状況は、

チェスタトンの愛国心の議論から、人間が一歩たりとも前進していないことを示す。


愛国を叫び、とある島を買おうとする者こそが、外交的緊張を生みだす引き金をひき、

事態収拾にかかる余計な出費を増やし、国を疲弊させているという逆説。

あるいは、愛国心を学校で教えられるなどとたわけたことを考える人々こそが、

そういう国はウンザリだと感じる若者を増やしているという逆説。


何かに対する愛は、教えることなどできない。

愛が発動するためには、理性的な分析ではなく、感情的な飛躍が必要だからだ。

人への愛についてはだれもがそう当たり前に思っているにもかかわらず、

国への愛になったとたんに、教えることができるかのように錯覚する。


”狂人とは理性を失った人ではない。

狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。”

(チェスタトン著、安西徹雄訳、『正統とは何か』、春秋社、p.23)


愛は理性的に学べると考える人は、チェスタトン的には立派な狂人である。


本当の常識が常識として維持され続けるためには死に物狂いの努力がいる。

人間はたやすく常識に余計なものを加え、常識を覆い隠してしまうからである。


常識を視野の真ん中に収め続けるためには、ヘソを曲げ続けなければならぬ。


チェスタトン的な正統とは、小林秀雄的には常識であり、

それは、坂口安吾的な墜落の果てにある。僕はそう整理しているのだが、どうだろうか。


【2013年4月16日追記】

チェスタトンは、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と嘆くイエスの姿に、

神の笑いを読み取る。


この解釈は、僕を魅了してやまない。