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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ウィトゲンシュタインは哲学的な著作だけでなく、その独特な魅力をはなつ人柄で知られている。安永浩先生や中井久夫先生の本にウィトゲンシュタインについての言及があったので、彼の伝記を手に取ってみた。いくつか気になった部分を抜き書いておく。

 

”ウィトゲンシュタインは、議論する相手の考えていることを言いあてる異常な才能をもっていた。相手がその考えを言葉に置きなやんでいると、ウィトゲンシュタインは、それが何であるかを見てとって、相手のために言葉に直してくれたものだ。この能力は、ときどき神わざのように見えたが、実際は、彼自身が長い間たゆみなく研究をつづけているためにできたことだと、私は確信している。彼自身が複雑に入り組んだ問題を解決するために、何百回となく、相手の考えている点を通ったことがあるので、相手の頭にあることがすぐわかるのだった”(平凡社ライブラリー版, p.71)

 

”人を殺してしまったとか、結婚が破綻に瀕しているとか、あるいは、信仰を失いかけているといった場合であれば、相談するのにウィトゲンシュタインほど適した相手はいない。かれはどんな助力も惜しまないだろう。しかし、心配事や不安に悩まされているとか、まわりにうまく適応できないといった場合には、かれは危険人物であり、ぜひとも避けねばならない人物である。かれは、ありふれた悩みには同調しないし、かれの解決法はあまりにも極端に走る。原罪を治療するのが、かれのやり方である”(同書,pp.213-214)

 

最もよく苦しむ者が、他人の苦しみをよく理解する、のかもしれない。そういえば、ブッダもイエスも、苦しんだ(内面的にも、外面的にも)とされている。患者さんの苦しみを理解するには、医療者が自分の苦しみについて考え続けていることが有用なのかもしれない。ただし、ウィトゲンシュタインにとっては、重要な苦しみと、そうでない苦しみがあるようだ。おそらく重要かどうかは「罪」が関係しているのだが、ウィトゲンシュタインの「罪」がなにを指していたのか、この伝記からだけではよくわからない。ウィトゲンシュタインがキルケゴールやアウグスティヌスなどに親しんでいたことから考えると、倫理が彼にとって重要であったことは間違いなさそうなのだが。

 

もともと哲学に興味があって精神科医になる人は結構いるのだが、M・フーコーとかハイデガーなどが好きな人と、ウィトゲンシュタインが好きな人では、臨床のセンスに見逃せない違いがあるように思える。僕は、後者を好むのだが果たしてどうだろう?

 

僕にとっての哲学は、鋭い洞察ではなくて、地道な言葉の点検作業からなっている。たいしたことないことのたいしたことなさを味わうには、たいしたことある点検がいる、と僕は思っている。 

 

”彼の底知れないペシミズム、たえず持ちつづけた道義的苦しみ、冷酷なまでに厳しく自分を追いつめていった知識への情熱、そして愛情を必要としながらも、愛情を遠ざける結果となった他人に対するきびしさ、といった彼の人となりに思いをいたすとき、ウィトゲンシュタインの人生はひどく不幸なものだったと私は考えたくなる。けれども、その生涯の終りに、彼自身はすばらしい人生だったと叫んだ。私にはこの言葉は不可解である。けれどもまた、不思議にも人を感動にさそい込む響きを持っている言葉でもある”(同書 pp.155-156)

 

ウィトゲンシュタインは、彼なりの苦しみを真摯に生きた人のように見える。彼は、自らの哲学的才能を、自分のためにではなく、哲学に貢献するために全力で使いづづけた。自分の頭が哲学するだけの力を持たないと思った時期に彼は、修道院や病院の掃除夫、小学校教師などを転々とした。他者への貢献が彼にとって非常に重要だったのだと思われる。

 

僕は、ウィトゲンシュタインのような使命感、義務感とは離れたところで生きている。誰かのために、あるいは何かのために貢献したいという気持ちを僕はほとんど持っていない。いや、持っていないわけではないが、実際に貢献できるのだろうかと、ついそこで立ち止まって考えこんでしまう。僕はただ、自分なりに、まぁまぁな苦しみと楽しみを、まぁまぁな感じでやりすごしたり、味わいながら生きているに過ぎない。ちょびっとだけ願うのは、こんな僕の代わり映えのない姿が、ある意味での定点観測みたいにしてほかの人の役に立つかもしれないという可能性だ。そうだったら、ちょととうれしいし、そうでなかったらそうでなかったまでなのだが。

 

ほかの人の役に立つということは、僕にとっては途方もないことのように感じられる。たとえ、僕が全力をつくしたとしても、それが役に立つためには、なんらかの僥倖がいるのだ。

 

余談だが、本書の原題はNorman Malcolm. Ludwig Wittgenstein, A Memoirである。邦題の”天才哲学者”はちょっと余計ではないか。天才扱いよりも、自身の哲学についての真摯な理解をウィトゲンシュタインは望んでいたと僕は思う。

だんだんと涼しくなってきた。

今年は涼しくなる日付が例年よりも遅い気がする。まあ、四季の変化がどうしておこるのかをよく理解していない僕にとって、「例年に比べて」という尺度は世間話程度の意味しか持たないのだろうが。

この時期になると、いつころもがえをしようかな、まだしなくていいかなという相反する思いが出てくる。例年の傾向では、「そろそろころもがえしたほうがいいかな」と思ってから3週間ぐらいして重い腰が動くことが多い。しかも、ものぐさな僕は、ころもがえ単独ではなかなか動き出せない。先日、たまたま後輩の結婚式があり、滅多に着ないスーツを押入から取り出すタイミングにあわせて、なんとか無事にころもがえることができた。後輩さまさまである。

 

ころもがえの記念に、後輩あての寄書きに記したお祝いのメッセージを記録しておく。

 

「真実は人を自由にする」(ヨハネ8-36から一部改変)。お二人の確かな結びつきは、より二人を自由にのびのびとさせてくれるはずです。結婚おめでとう。ようこそ、より自由な世界へ。

 

結婚というと、一般的には、束縛や不自由というイメージが付きまとうのかもしれない。だが、僕の直観では、二人の信頼感が真実に根差すのであれば、一人よりも二人でいるときのほうが、より自由でいられる。ちょっと説明が要るかもしれない。

 

善き人々は同じ足取りでいつも歩いている。彼らのことは何も知らずに、他の人々はそのまわりで、時代の様々な踊りを踊っている。(フランツ・カフカ)

 

平穏な時も、危機の時も、いつも同じ足取りで歩く人々に、僕は真の自由を見る。うつりかわらない真実に根差す人は、うつりかわる意味や価値に踊らされる人よりも、自由である。と、僕は率直に思うのだが、あまり一般的には理解されない考え方のようである。

 

ともあれ、お二人の表情、場所、時間、天候といろんなピースがピタッとはまった素敵な式だった。

 

追記:このお二人はお互いへのメッセージとして「一緒に長生きしてください」と書いておられた。ちょうど最近見ている『新米史官ク・ヘリョン』のなかで、「願郎千萬壽 長作主人翁」という漢詩が主人公二人を結びつける重要な役割を果たしていた。「愛する人よどうか長く生きて、私の心の持ち主でいてほしい」という意味(意訳?)らしいのだが、新婚のお二人とまさに重なる言葉であった。

『落葉』には時間がない。別の言い方をすると、運動性がない。どこまでも静的なのだ。写真のように、運動性のあるものの一瞬をきりとるという感覚は、この作品からは感じられない。時間的前後に別の一瞬があるようには思えないからだ。雀や色づいた葉、積極的な色を奪われた土は、変化の可能性あるいは変化の必要性を全く感じさせない。それほどこの作品は、他のもの・ことから隔絶され、それゆえ孤高である。この絵の中の世界におそらく時間の流れはない。故に、この作品の魅力は、流れる時間の一瞬を閉じ込めることによるのではない。むしろ逆に、観る人が時間の流れに閉じ込められていることを、この絵の無時間性が暴露することによって生じている。逆方向から言えば、この絵の無時間性を前にして、観る人は自分が時間とともに変化してしまう存在であることを突き付けられる。美しさと厳しさを併せ持った作品である。そのように私には思われた。

相方さんと一緒に、1日1話のペースで韓国ドラマを見ている。

このまえ見終わった『ハベクの新婦』の中の、主人公の精神科医かつ神の従者ソアさんの一言が心に残った。

 

「辛いときに 笑うのが一流だ 我慢するのが二流だ 泣くのが三流だ」

 

僕は、どの反応もそれはそれでいいのではないかと思うのだが、自分の心の余裕具合で、辛いときの反応は変わってくるのかもしれない。

 

一流だから良い、三流だから悪いというわけではないと思う。もし、辛いときに泣いてしまうとすれば、その辛さが僕にとってとても大きな意味をもつということなのだろう。

 

笑うにしても、我慢するにしても、泣くにしても。その時の自分の感情を偽らずにいられたらと思う。

ずっと前からだが、僕はその意味で、正直というよりは、率直でありたいと思い続けている。

今回は下の屏風図についての感想文をアップする。

すいこまれそうな絵である。この絵の醸し出す立体感が珍しいと感じたので、この作品を選んだ。通常の絵は、切り取った平面の向こう側に「奥行き」という仕方で三次元を表現する。しかし、この絵では、松林を漂う霞は、松の間だけでなく、切り取られた平面の手前にもあるように見える。私がはじめにこの絵を観て「すいこまれそう」と感じたのは、絵の手前に浮き上がってくるこの霞に包みこまれたような錯覚に襲われたからに他ならない。これが通常の絵とは異なる遠近感の正体ではないか?また、教科書によると、作者である長谷川等伯はこの作品を「静かなる絵」として描いたようだ。「静か」とは情景だけでなく、その情景を見る者の心にも当てはまる。この作品は実在の風景を写実的に描いているようにもみえるが、私にはむしろ長谷川等伯が、彼自身の心の有り様を投影しているように思われた。もしかすると、この絵を鑑賞する者はみな、松林をみているつもりで、実は自分と向き合わされているのかも知れない。