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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

インターネットで気軽に動画がみられるようになった。ありがたいのが、貴重な講演の動画や音声記録に触れられることだ。本ではなく、動画で学ぶ時代もそのうちくるかもしれない。まさか論文が動画に置き換わる、なんてこともあるのだろうか。

 

最近は臨床心理学者河合隼雄先生の講演シリーズの動画を見ている(聞いている?)。一時期集中的に河合先生の本を乱読したので、内容としては知っていることが多いのだが、河合先生の話のリズム、力のいれるポイントなど、動画や音声として聞くことで新しく気がつくこともあって、面白い。

 

ちょっと前までは、禅僧(?)内山興正老師の講演を聞いていた。「生存と生命」、「私の修行」など、本として出版されているがなかなか手に入らないのでとても助かる。もちろん、内容は老師らしくぶっとんでいる。内山老師が仏教とキリスト教を通して自分で何十年間も考え続けた言葉がこんなに手軽に聞けるとは!

 
その他にも、中村元、小林秀雄など、大御所の講演も気軽に見られる。このお二人は、書く文章と、話す言葉の印象に乖離があるので、面白い。小栗康平監督や詩人の長田弘さんの講演もみられる。瀧澤克己先生の講演音声とかもそのうちアップされないだろうか。
 
閑話休題。
 
年末年始に映画でも見ようかと、いろいろ検索していたら周防正行監督の『カツベン』がヒットした。予告編を見たりしていたら、周防監督と草刈民代さんご夫妻が映画『ダンシング・チャップリン』について取材されている関連動画があった。そのなかで、夫婦円満の秘訣を聞かれたお二人のやり取りが面白かったので、一部省略しながら抜き書きしておく。
 
草刈さん「こうあってほしいと、相手に強く望んでないことがいいんじゃないでしょうか。」
周防監督「僕自身、結婚願望とかなかったんで、こういう夫婦でありたいってあんまり思ってなかった。」
周防監督「二人いて、ま、気分が良けりゃ、それでいいだろうって感じなんで。」
周防監督「結婚してわかったのは、家に帰って不機嫌な人が隣にいるのが、一番苦痛なので。」
周防監督「だからなるべく、お互い不機嫌にならないように・・・」
草刈さん「そんな風にいったら、私がずっと不機嫌みたいじゃないねぇ?」
周防監督「いやいや、不機嫌じゃないから続いたんじゃない。」
草刈さん「まぁ、じゃあ、そういう風にちゃんと言ってくれないと。」
周防監督「不機嫌なときが少なかったので、続きました(笑)。」

 

お二人のやりとりが面白かったので何回も再生していたら、相方さんが「どれどれ」と覗き込んできた。「この言葉はなかなか味わいあるよ」と具申したところ、ご覧になった相方さんは、「何?私への当てつけ?」とややご立腹のご様子。「いやいやいや」と僕が慌て始めると、急に相方さんが笑顔になった。人の心は難しい。

 

大晦日の追記:書き忘れたのだが、ご立腹のタイミングに合わせて「わたしだって、これぐらいのこと思ってるわよ。甘く見られるとこまります」と相方さんの力強い一言もあったのだった。うん。確かに。このやり取りが面白く感じられるということは、普段から周防ご夫妻のやりとりと似た感覚を楽しんでいたからなのだろう。結婚とは、それまで別々に生きてきた二人が突如一緒に暮らすのだ。簡単なはずはない。でも、簡単にできることはつまらない。大変だからこそ、面白さもでてくるのではないだろうか。一緒に大変な面白さを味わってくれている相方さんには、感謝深謝である。

中村哲さんが銃撃によって命を落とされたとのニュースがはいってきた。本当にびっくりした。どうして中村さんのような人が狙われなければならないのだろう。


過去のインタビューで中村さんは、「3度のごはんが食べられて、故郷で家族と暮らせたら、それだけでいいんだ」というアフガニスタンの青年の言葉を受けて、灌漑事業に取り組み始めたとおっしゃっていた。中村さんは、なされた仕事の大きさが要求するであろう熱意や厳しさからはかけ離れた、穏やかで静かな雰囲気の方だった。

単なる憶測なのだが、中村さんの命を奪った敵意は、中村さん自身に向けられたのではなく、日本という国にむけられたものではなかったか。現在の日本が国際社会の中で持たれているイメージが、中村さんを失わせた、そのように僕には思われる。もし、この僕の推測がそれなりに妥当なのだとしたら、とても悲しく、とてもくやしい。日本国憲法前文で謳われた「国際社会における名誉ある地位」に、日本はまだ達していないようだ。

 

壊すことは単純で簡単だが、作ることは複雑で難しい。中村さんのひらいた裾野が、アフガニスタンの人々を末長く潤すことを願う。そして、僕は僕に与えられた現場で、僕なりに力を尽くしていこう。

 

もしかすると、中村さんの活動は、アフガニスタンだけでなく、日本も潤していたのかもしれない。

 

追記:中村哲さんは西南学院在学中にクリスチャンとなられた。九州大学医学部在学中には滝沢克己先生の授業もうけ、カール・バルトの神学書も読まれたそうである。ネパールでの活動でしられる岩村昇先生の講演を聞いて、アフガニスタンへの赴任を決意されたとのこと。赴任前は精神科医として働かれていたこともあり、僕にとっては、とても気になる接点が多いことにいまさらながら気付かされた。

僕には人の歩き方に注目してしまう癖がある。

 

先日あまりにも遅い夏休みをいただき、相方さんと二人新幹線で上京した。

 

一日目、相方さんはライブ、僕は中学校以来の友人と座談会。友人宅近くの喫茶店で3時間話し込んだ。5年前に会ってから後、友人は父となり、転職し、僕は就職していた。歴史と語学に秀でたその友人は、学究の道にすすんでもよかったのだろうが、サラリーマンという道を選んだ。就職後も好きな勉強は続けているらしく、会うたびにいろいろな話が飛び交う。最終的には、身の回りにはお互い色々な変化があったものの、基本的なスタンスはなんも変わってないな、というところに話は落ち着いた。最寄り駅まで見送ってくれた友人の歩き方は、相変わらず、歩幅は小さく、地面を余り蹴らない静かな歩き方だった。

 

二日目は相方さんと一緒に行動。前職の先輩と合流して、『トッケビ』で有名になりつつある「オリーブ・チキン」で昼からビールを頂き、冗談しか言っていはいけないという制約の中で、近況を報告した。酔った頭には結構ハードワーク。先輩の歩き方は、みんな酔っぱらっていたので正確には判定できず。夕方からは半分酔っぱらったままでとあるライブコンサートに。

 

三日目は、鬼門のディズニーランドへ。前日飲みすぎで寝坊し、あろうことか10時ごろからの入園。すでにたくさんのお客さんがこられており、すいてるうちに色々回る作戦は計画倒れに。比較的空いてる蒸気船とかジャングルクルーズとか、いろんなショーとか、イッツアスモールワールドをまわったのだが、結構ほっこりできてよかった。トム・ソーヤ島の紅葉がきれいでびっくり。夕方になり、今回のメイン目的である、ブルーバイユーレストランでお食事。すこし暗めの照明が雰囲気抜群で、ときおり「カリブの海賊」の船に乗ってる人から手を振ってもらえるという、なんとも贅沢なひと時だった。帰りの新幹線の時刻がさしせまっていたので、お土産を買う相方さんと、ホテルに荷物をとりに帰る僕と二手に分かれた。先についた僕が駅でまっていると、僕の姿を見つけた相方さんが突然走り始めた。相方さんはめまい持ちなので、上下動を極力抑え、足の回転だけで前に進む走り方である。あまりに赤塚不二夫の漫画みたいだったので、相方さんには失礼だが笑いがこみあげてきてしまった。

 

よく観察すると、人の歩き方には、意外とその人のもっている考え方や、テンポ感が表れているのではないか、と思う。そうえば、入院患者さんで、足音でだいたい僕だとわかるとおっしゃっていた方がいらっしゃった。僕自身は、いつのころからか、海のような心持ちで、波のような歩き方ができたらいいなぁと思っているのだが・・・。

 

晴天に恵まれて、遅い夏休みは、あっという間に過ぎ去った。

研修医の先生向けに簡単なレクチャーをする機会があるのだが、今年は「せん妄」「統合失調症」を担当することになった。

「せん妄」の回では、「せん妄とは、ごく軽度の意識障害により、身体症状より精神症状が前景にでている状態」と説明したあとに、研修医の方々に「この定義から治療の方針を考えて下さい」とクイズを出している。今のところ8割近くの先生方が的を得た回答を出してくれる。頼もしい限りである。

僕が想定している回答は2つ。「意識障害を改善させること」と「より重度の意識障害にすること(=薬剤的に鎮静して寝てもらうこと)」である。せん妄では、意識障害自体が改善すると覚醒度があがるので精神症状が消失するが、逆に昏睡や睡眠といった深い意識障害になっても精神症状は消失する。ごくわずかにぼーっとしている時でないと精神症状は出現しないのである。
 

そう考えると、せん妄への対策は、実はいろんな問題解決の場面と共通するのではないかと思った。
 

今まさに顕在化している問題を解決するのに2つの方向性がある。ひとつは「問題を直接改善させること」、もうひとつは「より大きくて深刻な別の問題を起こすこと」である。

例えば、外交的な問題が起きたとき、その問題を話し合いで解決するための奔走だけでなく、戦争というより巨大な問題を引き起こす選択肢が模索されることがある。

そういえば精神科臨床の場でも、患者さんは今ある苦しみから逃れるために、問題に対峙して解決していくという方向性ではなくて、より深く重く病うという選択をとることがある。登山中に遭難したとき、窮地より脱しようとして、誤って山頂に向かってしまう場合に例えられるかもしれない。

全体の見通しが持てないとき、よい解決策に見える方法が実は、問題をより深める方法であることがある。だからこそ、問題だけでなく、経緯や環境を含めた全体像の把握が重要となる。

 

しかし、限られた情報から結ばれた全体像は、しばしば、解決の方向性の是非判断を誤らせる。難しいのは、「今得られている全体像」が問題をとらえるのに十分な全体像なのだろうかという点である。時間の限られた急性期の臨床現場では、見切り発車的に進まないといけないことがある。いったん決めた治療方針でなかなか効果が得られないときには、一度立ち戻って、全体像が適切なのか、抜け落ちていた重要な情報があるのではないかという視点で見直してみるのがいいのかもしれない。

まさかまさかの『時効警察』新シリーズが、毎週金曜日に放映されている。

生きている間に新作を見られるとは、思ってもみなかった。僥倖である。

この世界もまだまだ捨てたものではない。

 

凝りに凝った台詞やしぐさのために全力を傾けている時効管理課メンバーの姿がまぶしい。

『時効警察』をくだらないという人もいるだろうし、そういう人がいても別に構わない。

でもやっぱり僕は、このドラマを好きな側の人間でいたいと思う。

 

オダギリジョーと麻生久美子の演技は相変わらず出色である。

作品の性質上、熱演というよりは怪演にならざるを得ないのだが、このお二人含め、

時効管理課メンバーの板につきすぎた「自然なヘンテコさ」には心を打たれる。

 

『時効警察』を下らないと感じる人は、たぶん、何かに一所懸命になった経験がないのではないか。

人生は、何かに本気で取り組めば、結果はどうあれ何かしらの手ごたえを返してくれる、ことが多い。

何かに本気になったことがなければ、些細なことを積み重ねる重要さに気づくことは困難だ。

 

『時効警察』は爆笑を生まない。だが、クスクス笑いの積み重ねが全編を包み込んでいる。

事件は起こる。でも誰も罰せられないし、罰しない。みんながそれぞれの立ち位置で輝いている。

その意味で、このドラマには深い肯定力がある。

 

『時効警察』の表面上の「ゆるさ」に、「真面目な不真面目さ」を嗅ぎ取れなければ、

このドラマの本当の味わいにはたどり着けない、と僕は思う。

誤解してはいけない。「真面目な不真面目さ」であって、「不真面目な真面目さ」ではない。

前者は真の遊びを理解するが、後者はただの未熟である、といっても過言ではないのだ。

 

「神は細部に宿りたまう」(久野収)。