最近分かったことがある。僕は自動扉が少しでも開き始めると、完全に扉が開ききる前に、すきまをすり抜ける癖があるようなのだ。この癖は自動扉のときだけに発動するようである。自分であけるタイプの扉の場合、すり抜けは発動しないのだが、それでも扉を開けるスペースをなるべく少なめにしようとしているようだ。なるべく穏やかな人間でいたいとはおもうのだが、行動だけからみると僕は結構せっかちなのかもしれない。とはいえ、すきま幅を見誤ってすり抜け失敗におわった経験はまだないから、単なるせっかちというよりは冷静なせっかちなのだろうか。基本的には僕は気が長い方だとは思うのだが、なぜ扉に関してはせっかちなのだろう。
うーん。しばらく考えてみたのだが、僕は自動扉の自動性にゆだねるのが苦手なのだと思う。たとえば、扉の開くスピードに合わせないといけないことで、自分のペースを乱されているように感じているようなのだ。自動○○というのは便利ではあるが、機械の自動性が発動されている間、利用する側の人間は不自由という側面もある。多分、僕はせっかちなのではなくて、へそまがりなのだった。
以下はおまけ。すこしだけ今夏について覚書しておく。
すこしずつ暑さがやわらいできて、今年の夏も終わりが近づいている。コロナは軽症化しているが感染者数は増えており、休みも家でのんびりが多かったなぁと思う。感染することへの不安は特にないし、家で隔離されていれば本を読めるのでそれはそれでいいのかもしれないが、やはり、働けなくなるのが困る。それゆえ、あまり屋外活動はできなかったが、そんななかでも、ブルーインパルスを見逃したり、いくつかお城とお寺を見物にいったり、半年ぶりに元気いっぱいの甥っ子、姪っ子たちと会って遊んだりはできた。
読書では、小川修先生の論文に触発されて、親鸞、法然、一遍についていくつか文献にあたった。阿満利麿さんの歎異抄についての解説が興味深く、かつ分かりやすかった。夏になるとどうしても戦争関連の本を読むことが多い。今年は、長谷川三千子さんの『神、やぶれたまわず』を読了した。詳細はまた読書記録で記したいと思うが、敗戦を日本にとっての神学的契機として解釈する試みは興味深かった。むろん、敗戦当時の日本には多くの人がいたわけだから、敗戦を神学的な画期と感じた人もいただろうし、当然の帰結と考えた人もいるだろう。ある出来事を、一回しか起こらない唯一のこととしてとらえるか、歴史的な事象の一つとしてとらえるかについては、「人それぞれの行き方があるのだろう」(『南原繁回顧録』で丸山眞男さんが記されていた南原先生の口癖)。
you tubeでみた動画では、スラヴォイ・ジジェクが彼独特のアグレッシブな英語で「Daisetsu Suzukiの倫理は戦争を止められなかった」と熱く述べていたのが印象深かった。最近は日本国内を自動車旅行している方々の動画をみることが多い。自分でしてみたいという気持ちもないわけではないが、やっぱり自動車旅行は本が読めない時間が長すぎるのが問題である。旅行に出かけるには、ある程度気になる本を読み切ってからでないといけないのだろう。道は長くて遠い。