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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

人間にとって病気ってなんなのかを、考えこんでいる。

 

病にかかると、自分は生き物なのだという現実がつきつけられるように思う。「おまえは身体という限界をもっているのだ、だから病にはかかりうるのだ」と病はいってくれているように思える。そしてたいていの場合、病は身体を無視して、頭の欲望に従って無理しているときに起こる。病は無理であることを知らせ、やや強引ではあるが休養を与えてくれることもある。

 

病になることで地に足をつけていられる。そういう面もあるのではないだろうか。

 

■追記

ローマ書5章3-4節に、病気(患難)についての驚くべき言葉がある。

3 それだけでなはなく、(わたしたちは)患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

4 忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。

 

この言葉は、生きることと病むことと隣り合わせであった時代の知恵を示しているように思われる。患難の脅威が2000年前よりは和らいでいるように見える現代ではあるが、見方をかえれば、医学は問題の先送りをしているだけなのかもしれない。

 

NHKプラスというサービスが始まった。見逃し配信が可能になり、非常にありがたい。後日配信をおいかけることで、ひさしぶりにコンスタントにチェックできているのが今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』である。

 

三谷幸喜さんの群像劇は本当に面白い。一人一人の俳優さんたちの役ごとにみどころ、演じどころがあり、俳優さんも楽しく演じているように見える。

 

このドラマを観ていて、戦の描写が以前の大河ドラマと異なっていることに思い当たった。

 

『武田信玄』や『独眼竜正宗』では大規模な戦闘シーンが見どころになっていた。川中島の戦いで武田信繁が討ち死にするシーンを一人遊びで再演するのが、がきんちょ時代の僕の楽しみだった。

 

『鎌倉殿の13人』は源平合戦、承久の乱など、戦乱の多い時代を描いている。当然、合戦シーンが見どころの一つになるかと思いきや、有名な「○○の戦い」であっても、作戦会議が中心に描かれることが多く、大規模で迫力ある戦闘シーンはほぼないのがこのドラマの特徴になっていた。石橋山の戦い、富士川の戦い、一の谷の戦い、壇ノ浦の戦いなどの有名な合戦でも、戦闘シーンは鎧を着た主要人物が数秒うつるだけという感じだった。源義経が最期をむかえた衣川の戦いでは、実際の戦闘を描かず、弁慶が戦っている音だけを描くという搦め手ぶり。意表をつく印象深いシーンだった。

 

ところが、先日第36話『武者の鑑』という回をみて驚いた。「畠山重忠の乱」というややマイナーな戦いの場面で、このドラマでは初めてとなる大人数の歩兵も含めた騎馬戦が描かれていたのである。畠山重忠と江間義時の間の友情、葛藤の描写もすばらしく、演技のぶつかり合いも緊張感にあふれていて、本当に見ごたえのある回だった。「だれが戦などしたいとおもうか!」と叫んだ時の畠山重忠(中川大志さん)の声色、表情、カット割り、どれもすごかった。名作である。

8月のお盆は妹一家が祖母宅に帰省していたので、にぎやか。甥っ子、姪っ子はすっかり大きくなって、漢字テストの面白間違いで大笑いしたりしている。楽しそうでなによりだ。

 

お盆の期間中、祖母宅では西国33か所観音霊場の御詠歌を節に合わせてう唄うのが夕食前の習わしになっている。キンキン、キンキンキンと2拍子、3拍子の入り混じる不思議なリズムを刻みながら唄で名刹を巡るところが、結構好きである。小さいときは、何をいってるのかさっぱりわからなかったが、すこしずつ訪れたお寺が増えてくるにつれ、この季節の御詠歌が楽しみになってきている。

 

例年はカセットテープに吹き込まれたお手本にあわせてみんなで唄うので、今年も仏壇の引き出しをゴソゴソとさがし、テープを流してみた。うーん。結構ゆっくりなので一回りすると40分ぐらいかかりそう。例年は夕食がまにあうように、1日でカセット半面分を唄い、翌日もう半面分やっていたとのこと。

 

今年は、みんながそろうのがその日だけだったので、せっかくなので33か所分を全部唄おうということになったのだが、夕食がまちきれないおチビさんたちにも配慮し、お手本のテープは流さずに、一番慣れている僕が拍子と節をとり、みんながそれに合わせて唄うことになった。御詠歌そのものを早く唄うわけではないけれど、途中の観音霊場名の読み上げとかを早くやると、30分弱で1周回ることができる。

 

訪れたお寺の風景を思い出しならやっていると、これが結構癖になる楽しさになってくる。ノッてくると、ゆるりゆるりと言葉が身体を通り抜けていく感覚になってきて、これがなかなか面白い。大人組が真面目に御詠歌を上げている間、子供組は寝ていたり、一緒に唄ったり。

 

無事に一周おわって、さぁ夕食にしましょうかとみんなが立ち上がろうとすると、祖母がぽそっと「今年ははよ終わったな。別のテープかけたんか?」といって、みんなびっくり。「テープかけてないよ」と僕がいうと、「えーわからなんだ。あんたがうとうてたんか。上手やな」と祖母。みんなで大笑いして、夕食となった。

 

僕は仏教に帰依しているわけではなく、むしろ個人的には基督教に関心を抱く者である。だが、亡くなった祖父が御詠歌を大事にしていたこともあり、亡くなった人が大事にしていた習わしで悼むということは大事なことだと思う。最近、小川修先生が一遍上人を高く評価していることもあり、仏教にも関心がでてきた。

とある葬儀が賛否両論を生んでいる。長期政権の実績をもって国として弔うべきだとか、弔意の強制にあたるとか、様々な意見がでているようだ。上野千鶴子さんらが40万人の反対署名を集めたというニュースも流れた。

 

僕は安倍さんと個人的な知り合いではないので、国葬であろうとなかろうと、中継も見ないし、現地にもいかないし、黙祷もしない。毎日亡くなる人はたくさんおられる。その中で、人間は自分の個人的な知り合いの死を悼むし、知り合ではない人の死は悼まないし、悼みようもない。それだけのことである。

ただ僕が一つ気になるのは、「国葬」を早期に閣議決定した現首相の判断力である。このように世論が割れることをどこまで予測していただろうか。おそらく当日の会場外でも抗議デモが行われるだろう。デモクラシー歴の長いアメリカならば日常的な光景だが、日本では「後味が悪く」なりそうである。

世論の分裂や後味の悪さまで予測して、なお堂々と国葬を行うと決めたのなら、たいしたもんだと思う。しかし、もし予測できていなかったならば、問題は深刻だ。

現首相が国葬を決断したとき、現首相のまわりの雰囲気が「当然国葬でしょ」だったとしたら、それは恐ろしい。現首相のまわりは安倍礼賛ムードしかなかったのかもしれないが、それが局所的なムードにすぎないことに現首相は気が付いていたのだろうか? 世論調査では、今回の国葬について賛成30%台後半、反対50%台というデータが多かった。調査結果が、現首相の実感と大きくずれていたのであれば…、現首相の判断力・予測力には疑問を持たざるを得ない。

 

ちなみに僕は、総理時代の業績でいうなら、小泉さんのほうが拉致被害者一部帰国を実現した点だけでも安部さんより高く評価されるべきと思っている。安倍政権がずばぬけていたのは不祥事・疑惑の多さと、難局時に体調不良で政権を投げ出した回数であり、更に付け加えると、忖度という恐るべき意思決定プロセスがまかり通っていたことが明るみに出た後もなお選挙に勝てていたことである。

 

安部さんはたしかに選挙には強かった。だがそれも宗教団体の組織力に依拠したからであることが徐々に明らかになりつつある。現首相は宗教団体との関係を「整理」といっているが、「整理」して果たしていまの自民党は選挙に勝てるのだろうか…? 「整理」を言明した現首相の判断が是とでるか非とでるか、僕はやや厳しめの予測をいだいているが、はたしてどうだろうか。

 

補足1:世論調査で50%以上の反対がおきている行事をおこなうことは「強行」である。強行を決定できる「内閣府」とはいったいなんなのだろうか。

補足2:そういえば、安倍元首相は、戦後70年談話で「積極的平和主義」ということをおっしゃっていた。ウクライナとロシアの紛争が始まってから、銃撃で亡くなるまである程度の時間があった。「我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります」と談話に記された安倍さんの、積極的平和主義的な観点からの意見を聴きたかったなと思う。

最近分かったことがある。僕は自動扉が少しでも開き始めると、完全に扉が開ききる前に、すきまをすり抜ける癖があるようなのだ。この癖は自動扉のときだけに発動するようである。自分であけるタイプの扉の場合、すり抜けは発動しないのだが、それでも扉を開けるスペースをなるべく少なめにしようとしているようだ。なるべく穏やかな人間でいたいとはおもうのだが、行動だけからみると僕は結構せっかちなのかもしれない。とはいえ、すきま幅を見誤ってすり抜け失敗におわった経験はまだないから、単なるせっかちというよりは冷静なせっかちなのだろうか。基本的には僕は気が長い方だとは思うのだが、なぜ扉に関してはせっかちなのだろう。

 

うーん。しばらく考えてみたのだが、僕は自動扉の自動性にゆだねるのが苦手なのだと思う。たとえば、扉の開くスピードに合わせないといけないことで、自分のペースを乱されているように感じているようなのだ。自動○○というのは便利ではあるが、機械の自動性が発動されている間、利用する側の人間は不自由という側面もある。多分、僕はせっかちなのではなくて、へそまがりなのだった。

 

以下はおまけ。すこしだけ今夏について覚書しておく。

すこしずつ暑さがやわらいできて、今年の夏も終わりが近づいている。コロナは軽症化しているが感染者数は増えており、休みも家でのんびりが多かったなぁと思う。感染することへの不安は特にないし、家で隔離されていれば本を読めるのでそれはそれでいいのかもしれないが、やはり、働けなくなるのが困る。それゆえ、あまり屋外活動はできなかったが、そんななかでも、ブルーインパルスを見逃したり、いくつかお城とお寺を見物にいったり、半年ぶりに元気いっぱいの甥っ子、姪っ子たちと会って遊んだりはできた。

 

読書では、小川修先生の論文に触発されて、親鸞、法然、一遍についていくつか文献にあたった。阿満利麿さんの歎異抄についての解説が興味深く、かつ分かりやすかった。夏になるとどうしても戦争関連の本を読むことが多い。今年は、長谷川三千子さんの『神、やぶれたまわず』を読了した。詳細はまた読書記録で記したいと思うが、敗戦を日本にとっての神学的契機として解釈する試みは興味深かった。むろん、敗戦当時の日本には多くの人がいたわけだから、敗戦を神学的な画期と感じた人もいただろうし、当然の帰結と考えた人もいるだろう。ある出来事を、一回しか起こらない唯一のこととしてとらえるか、歴史的な事象の一つとしてとらえるかについては、「人それぞれの行き方があるのだろう」(『南原繁回顧録』で丸山眞男さんが記されていた南原先生の口癖)。

 

you tubeでみた動画では、スラヴォイ・ジジェクが彼独特のアグレッシブな英語で「Daisetsu Suzukiの倫理は戦争を止められなかった」と熱く述べていたのが印象深かった。最近は日本国内を自動車旅行している方々の動画をみることが多い。自分でしてみたいという気持ちもないわけではないが、やっぱり自動車旅行は本が読めない時間が長すぎるのが問題である。旅行に出かけるには、ある程度気になる本を読み切ってからでないといけないのだろう。道は長くて遠い。