土居健郎『表と裏』弘文堂、昭和62年を読んでいる。
そのなかで日本の古語として面白い例がでてきた。古語でオモテは顔、ウラは心を意味していたらしい(同書11‐12頁)。古語のウラの用法が残っている例として土居先生は、ウラ病む(羨む)、ウラ切る(相手の心を切る、裏切る)などの例を挙げられている。
ふとおもったのだが、facebookの受け取られ方は日本と欧米では異なるのではないだろうか。欧米の人々にとってfaceは文字通り顔、自分が外に向けてもっている看板のようなものであり、facebookでのやりとりは直接会いにくい人同士の社交の場である。その意味で欧米ではpublic(おおやけ、公)の機能を延長するツールとして認識されていると思われる。日本の場合も、欧米と同じような受け取り方・利用のされ方もされていて、それは社会的な成功者や著名人に多いように思われる。しかし、僕にはfacebookをオモテ(社交場)ではなく、ウラ(心、内面)と捉えて利用している人が結構いるような気がしてならない。
もともと日本人が好きなのは、表向きの話ではなくて、裏話である。講演やスピーチでも、ちょっとした裏話があったほうが、表向きの話に真実味が出てくる。評価の高い和歌や俳句は、たいてい表の意味と裏の意味がある。
某首相の説明に、「自分の言葉で説明して欲しい」という批判がでたことがあった。もしかすると、その批難は、「表向きの話は分かった、で、正直なところ裏話はどうなの、それを聞かせてよ?裏話がないとなんか信用できないよ」という意味だったのかもしれないと思ったりする。
さて、土居先生の『表と裏』には、いくつか非常に印象深い箇所があったので覚え書いておく。
(1)オーウェルが全体主義的体制下の特色として描いた「二重思考」と、本音一本槍の「坊ちゃん」の類似性を指摘しているくだり(119頁)がある。土居先生は「二重思考」についてオーウェルの次の言葉を引いている。「知っていて知らないこと、まことしやかな嘘をつきながら完全に正直なつもりでいること、相殺し合う二つの意見を同時に持ち、それが相互に矛盾するのを承知しながらどちらも信じること、(中略)二二重思考という言葉を理解するにも二重思考の使用を要した」。一方で、土居先生は坊ちゃんの人間関係について、「特徴的なことは、人をすぐさま善玉と悪玉に分けることである。(中略)自分の都合次第で相手が善玉になったり悪玉になったりする」と指摘し、更にこう追加する。「本音だけでは人格は統一されず、却って分裂する」「自己が分裂しているので矛盾を矛盾と感ぜず、何が本当で何が嘘かが分からなくなり、容易に宣伝に乗せられる」。僕なりにいいかえれば、坊ちゃんの本音一本槍は、自分がその時心地良いと感じたことに忠実ではあるが、はたから見れば行き当たりばったりで、方向がころころ変わり、矛盾だらけなのである。オーウェルの二重思考と坊ちゃんの一本槍の違いは、前者が都合よく片方の考えを忘れることで矛盾を解消するのに対し、後者では矛盾を他者の豹変のせいにしていることである。前者は馴致されてるのに対し、後者は反抗しているとう違いはあるが、どちらも人格的には統合されていないと土居先生は喝破している訳である。この指摘は意味深い。僕が感じたのは、統合失調症でみられる二重見当識が、実は患者が全体主義的な体制下にいるように感じてしまうためにおこるのではないかという点である。二重見当識を一種のさせられ体験と理解できるのかもしれない。
(2)「ゆとりを持つためには、何が一番自分にとって大事かというところは秘密にしておく必要があるという点である。秘密にしておかないと、自分の自由がきかない」(136頁)。これは至言である。激しくうなずきながら読んだ。一読しただけでは、村上伸治先生の「手の内精神療法」と正反対の主張に読める。しかし、土居先生の「秘密」は、相手にさらそうとして言語的にさらせない類の「秘密」である。だから、手の内をみせるといっても、心の内まではみせないし、見せられないのである。
(3)「私たちが今一度(中略)絶望から脱出したいと思うならば、(中略)ただ単純に、先を見届けようとすることを止めることから始めねばならないだろう。すなわちまず、存在の根拠に秘密があることを認めてかかることである。裏はわからぬ、先は見えぬということで、ストーリーははじめて発展する」(176-177頁)。土居先生がカトリック信徒だったことをつい思い出してしまう文章。中井久夫先生が晩年カトリックに入信されたのは、土居先生や霜山徳爾先生の影響なのだろうか。
味わい深い本だった。