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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

『鎌倉殿の13人』が面白い、とつい先日も書いたのだが、第44回「審判の日」でまたびっくりしたことを書いておく。

 

北条義時(小栗旬さん)が弟時房(瀬戸康史)に言った台詞に次のような言葉があった。

 

義時「五郎、お前だけには伝えておく。ここからは修羅の道だ。つきあってくれるな。」

時房「もちろんです」

 

台詞だけみていると、「共に茨の道を歩んでくれるよな?」という確認ともとれる。しかし、義時を演じる小栗さんのイントネーションは、「つきあってくれるな」の最後が上がるのではなく、下がり気味になっていた。音だけからは、「つきあってはいけない。自分一人だけで行く」という意味に義時の言葉が聞こえるのである。

 

「苦しい汚れた道を歩むのは自分一人で十分だ」、義時の言葉にそんなニュアンスを僕は感じ取った。大河ドラマの中で義時は権謀術策に明けくれる。だが、明け暮れざるを得なかったのかもしれないと考えると、義時という人物が底知れなく思えてくる。

 

いかなる人間にも底知れない一面がある。しかし、その底知れなさを描ける作品は稀である。鶴岡八幡宮の階段が、オデッサの階段にならぶ映像的モニュメントとなるのか。次回を期待している。

通勤電車で本を読んでいる時、自分の視線の動きが上下にうごいているなと感じた。一般的に日本語で書かれた本は縦書きだから当たり前なのではあるが。

 

トラウマの治療にEMDRという手法がある。視線を左右に動かしている間に辛い記憶を思い出すことでフラッシュバックが軽減する。これはアメリカで開発された治療手法であるが、どうして効果を発揮するかについて、脳科学的に定まった回答はない(と、不勉強な僕は理解しているが?)。杉山登志郎先生のパルサー治療も簡易トラウマ治療に用いられるが、トラウマ記憶を思い出しているときに、左右の両手に電気刺激を交互に与えるという手法である。

 

EMDRやパルサーの治療がなぜ有効なのか。僕は勝手な仮説として、「左脳と右脳を交互に使うことが情動安定化につながるのではないか」と考えている。言語的な左脳と、直感的な右脳。一つの事象についての情報をいろんな特性をもった脳の部位で扱うことで強い情動反応を軽減するのではないか、というわけである。

 

僕の安直な発想がそんなに的外れでないとすると、横書きと縦書きではテクストを読む人の情動安定作用に差がでることになるのではないだろうか、ということになる。もちろん「横書きの方が情動安定作用が強い」、となるはずだ。

 

そこでふと思うのは、僕が欧米の詩が苦手で、あんまり読めないのはどうしてかという点である。もちろん原語で読まずに翻訳で読んでいるからというのもあるのだろうが、僕にとって、欧米の詩は、とくに情緒や感情にまつわる言葉がでてくると大仰に感じてしまうのだ。写実的だったり、形而上学的とか言われるような詩だとそんなに抵抗感なく読めるのだが。

 

ふたたび僕の適当な思い付きを記してみる。欧米の言語は横書きなので、情緒にまつわる言葉を大仰にしないと視線の動きで情動を中和されてしまって詩としての力が弱ってしまうのではないだろうか。そして、そもそも欧米の言語が縦書きではなく横書きを選択したのは、厳しい生活環境への苦悩があったからなのではないだろうか。さらには、横書きに文字を書き記していくこと、その文字を読み解くこと、そうした読み書きの営みがある種の癒しになっていたのではなかろうか。

 

では、日本語はどうなのだろう。漢字も仮名も文字としては縦書きにも横書きにも対応できるが、筆という道具が圧倒的に縦書きに適していることが大き影響を及ぼしているように思われる。縦書きであることがテクストの読み手にどんな影響を与えるのか、今度また考えてみようと思う。

ふと読んでいた本で、ハッとする言葉にぶつかった。

 

「われわれはお互いに誤解し合う程度に理解し合えば十分だ」(P.ヴァレリー)

 

「およそ臨床心理や精神病理の学問ほど、他者の理解を前提とするものはない。しかし、まさにこの点にこそ、大きなつまづきの石があるようだ。」

 

いずれも、霜山徳爾先生の、『仮象の世界 「内なるもの」の現象学序説』(思索社、1990年)という本の第1章「万華鏡の世界」に出てくる文章である。

 

霜山先生の言葉には、道を究めようと真摯に歩き続けた人にしばしば見られる、「なんとも言えない重み」がある。他人のことなど理解できないと絶望して諦めるのでもなく、他人のことは理解可能であると楽観して理想化するのでもない。

 

今の僕では、霜山先生の言葉に「ハッ」とする程度で、とてもその含意が腑に落ちたとまでは言えない。できればあと20年ぐらいたって、「そうだよな~」と自然に思えるぐらいになっているといいなと願うしだいである。

非常に円安が進んでいるので、海外の観光客が「安い!」とびっくりしているという。一部では、日本の国力が弱くなっているから円売りが進んでいるという解釈が報道されているようである。バブル崩壊後、給料があがっていないなどの事実も、日本の国力低下と結びつけて語られている。僕は経済学的な知識は乏しい一人の素人なのだが、もしも、「どんどん給料があがっていく経済」、「円高に向かっていく経済」を目指すとすれば、それはまさに高度経済成長期と同じ発想であり、その発想はバブルに至って崩壊したのではなかったか?、成長した経済力を投入した原発が招いた巨大災害はなかったか?物価、収入があがるということは、年金支給額を増やせないという予測下では老後の生活が貧しくなることを意味するが、それでいいのか?と疑問に思うわけである。僕にはむしろ、ウクライナとロシアの紛争でエネルギー資源が値上がりする中で、日本国内で物価がそんなに上がらずになんとか吸収できているということがかなりの経済的体力があるというしるしではないかと思われる。そして、うがった見方をすれば、ドル高になってるのは、アメリカがウクライナを兵器で援助し、自国は大きな損害を受けないのだから当然なのだともいえる。ついでに言うと、SDGs、”持続可能な成長”という言葉が最近よく聞かれるようになったが、これも成長を目指している限り、賃上げを目指す方向と大差ないのではないかと僕には思えてしまう。むしろ、持続可能であろうとなかろうと、「成長=すばらしい」という方向性の転換こそが検討必要なテーマではないだろうか。人間は、子供、大人、老人とだんだんと段階を経ていく。そのどこかで単純な成長といいう概念は当てはまらなくなり、成熟や洗練という言葉のほうが似合うようになっていく。社会の変遷が人間と同じような発達段階を経過するのかは分からないが、これから人口減少も予想されている以上、成長を中核に持つモデルは厳しいと容易に予想ができると思うが、どうだろうか。以上は僕の、大したデータの根拠もない直感的な床屋談義にすぎない。ただ、各種媒体の記事を読んでみても、直感的な話に過ぎないという点では僕の話とたいして変わらないなと思う次第である。

土居健郎『表と裏』弘文堂、昭和62年を読んでいる。

 

そのなかで日本の古語として面白い例がでてきた。古語でオモテは顔、ウラは心を意味していたらしい(同書11‐12頁)。古語のウラの用法が残っている例として土居先生は、ウラ病む(羨む)、ウラ切る(相手の心を切る、裏切る)などの例を挙げられている。

 

ふとおもったのだが、facebookの受け取られ方は日本と欧米では異なるのではないだろうか。欧米の人々にとってfaceは文字通り顔、自分が外に向けてもっている看板のようなものであり、facebookでのやりとりは直接会いにくい人同士の社交の場である。その意味で欧米ではpublic(おおやけ、公)の機能を延長するツールとして認識されていると思われる。日本の場合も、欧米と同じような受け取り方・利用のされ方もされていて、それは社会的な成功者や著名人に多いように思われる。しかし、僕にはfacebookをオモテ(社交場)ではなく、ウラ(心、内面)と捉えて利用している人が結構いるような気がしてならない。

 

もともと日本人が好きなのは、表向きの話ではなくて、裏話である。講演やスピーチでも、ちょっとした裏話があったほうが、表向きの話に真実味が出てくる。評価の高い和歌や俳句は、たいてい表の意味と裏の意味がある。

 

某首相の説明に、「自分の言葉で説明して欲しい」という批判がでたことがあった。もしかすると、その批難は、「表向きの話は分かった、で、正直なところ裏話はどうなの、それを聞かせてよ?裏話がないとなんか信用できないよ」という意味だったのかもしれないと思ったりする。

 

さて、土居先生の『表と裏』には、いくつか非常に印象深い箇所があったので覚え書いておく。

(1)オーウェルが全体主義的体制下の特色として描いた「二重思考」と、本音一本槍の「坊ちゃん」の類似性を指摘しているくだり(119頁)がある。土居先生は「二重思考」についてオーウェルの次の言葉を引いている。「知っていて知らないこと、まことしやかな嘘をつきながら完全に正直なつもりでいること、相殺し合う二つの意見を同時に持ち、それが相互に矛盾するのを承知しながらどちらも信じること、(中略)二二重思考という言葉を理解するにも二重思考の使用を要した」。一方で、土居先生は坊ちゃんの人間関係について、「特徴的なことは、人をすぐさま善玉と悪玉に分けることである。(中略)自分の都合次第で相手が善玉になったり悪玉になったりする」と指摘し、更にこう追加する。「本音だけでは人格は統一されず、却って分裂する」「自己が分裂しているので矛盾を矛盾と感ぜず、何が本当で何が嘘かが分からなくなり、容易に宣伝に乗せられる」。僕なりにいいかえれば、坊ちゃんの本音一本槍は、自分がその時心地良いと感じたことに忠実ではあるが、はたから見れば行き当たりばったりで、方向がころころ変わり、矛盾だらけなのである。オーウェルの二重思考と坊ちゃんの一本槍の違いは、前者が都合よく片方の考えを忘れることで矛盾を解消するのに対し、後者では矛盾を他者の豹変のせいにしていることである。前者は馴致されてるのに対し、後者は反抗しているとう違いはあるが、どちらも人格的には統合されていないと土居先生は喝破している訳である。この指摘は意味深い。僕が感じたのは、統合失調症でみられる二重見当識が、実は患者が全体主義的な体制下にいるように感じてしまうためにおこるのではないかという点である。二重見当識を一種のさせられ体験と理解できるのかもしれない。

 

(2)「ゆとりを持つためには、何が一番自分にとって大事かというところは秘密にしておく必要があるという点である。秘密にしておかないと、自分の自由がきかない」(136頁)。これは至言である。激しくうなずきながら読んだ。一読しただけでは、村上伸治先生の「手の内精神療法」と正反対の主張に読める。しかし、土居先生の「秘密」は、相手にさらそうとして言語的にさらせない類の「秘密」である。だから、手の内をみせるといっても、心の内まではみせないし、見せられないのである。

 

(3)「私たちが今一度(中略)絶望から脱出したいと思うならば、(中略)ただ単純に、先を見届けようとすることを止めることから始めねばならないだろう。すなわちまず、存在の根拠に秘密があることを認めてかかることである。裏はわからぬ、先は見えぬということで、ストーリーははじめて発展する」(176-177頁)。土居先生がカトリック信徒だったことをつい思い出してしまう文章。中井久夫先生が晩年カトリックに入信されたのは、土居先生や霜山徳爾先生の影響なのだろうか。

 

味わい深い本だった。