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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

NHKの100分de名著でジーン・シャープ博士の『独裁体制から民主主義へ』が取り上げられていた。「暴力への対抗手段として非暴力闘争が有効なのだ」ということが理論的に説明されていて、思わず見入ってしまった。「暴力は良くないから非暴力を」という倫理的な議論に触れることがおおかったのだが、シャープ博士は、非暴力闘争が戦略的に有効であることを堂々と主張している。その点にハッとさせられた。

 

シャープ博士の本は、暴力にもとづく独裁体制に市民的な非暴力闘争で対抗することを説いているが、そのなかで、独裁体制の暴力に市民が暴力で立ち向かっても勝てないことが丁寧に説明されている。

 

気が付けばウクライナとロシアが紛争をはじめてしまってから約1年が経過した。残念なことに短期間での停戦は成立せず、戦線は一進一退を続けている。シャープ博士の議論を国家同士の紛争にそのまま当てはめて良いのかは分からない。ただ、兵器が進化し、物流が発展している現代社会では、たとえ兵士が圧倒的に少なくなっても超強力な兵器を運び込んで盛り返すことが可能である。つまり、現代社会における暴力同士の衝突は、一方が他方を圧倒するという状況になりにくく、膠着しやすいのである。

 

となると、ウクライナ、ロシアの紛争はどのような形で停戦するのだろうか。人員や兵器、物資で差が付きにくいとなると、別の要因での決着を期待せざるを得ないのだが、その要因が僕にはわからない。ただ、ウクライナの人々、ロシアの人々が戦いたい・戦わなければならないと思っている間は紛争が続くのではないかと思われる。国家や政府が止められなくとも、市民ならば止められる可能性がある。その意味で僕は人々の力に期待を持ち続ける者である。

 

シャープ博士の本を知って僕が思い出したのは、かの中井久夫先生がペンネームで執筆された「抵抗的医師とは何か」(『日本の医者』日本評論社、2010年所収)である。医局制度に属しながら、臨床現場で患者さんの利益をどう守るのかという難題について説かれたこの文章は、実力行使に訴えない地道な抵抗の理論的手引きとして、シャープ博士とは異なる展望を見せてくれている、と僕は思う。

 

おかしなことと闘う方法はたくさんある。大事なのは、その闘いの中で自分がおかしくならないことだ。

田中克彦『ことばと国家』岩波新書、1981年を読んでいる。その本の内容とはほとんど関係ないのだが、読み進めるうちに話し言葉、書き言葉についてあらためて考えている。

 

話すことには、短時間的、聴覚的、瞬発的、無意識的、対話的という特徴がある。自分の声を耳から聞き、同時に相手のリアクションを把握しながら話の着地点を咄嗟に調整していく。会話を続けるという時間的な追い込みによって、思ってもいないアイデアが浮かぶこともある。言い間違えや聞き間違えが予期せぬユーモアとなる場合もある。

 

一方、書くことの特徴は、長時間的、視覚的、発酵的、理性的、独語的だと思う。書いた文字を目で見ながら、見直しながら、見間違いながら、時間をかけて何度も考え直すことで、自分の中で発想が練り上げられていく。

 

そのように整理すると、SNSというツールは話し言葉と書き言葉を近づけるように働くのではないか、と思えてくる。ツイッターやブログ、LINE、メールは、話す/書くの近づけ方にそれぞれ特色があるように思うが、どうだろうか。

 

僕は物心ついてから、話し言葉、書き言葉が自分の中で近づかないように気を付けていた。どうしてそのように気を付け始めたのか良く覚えていないのだが、この2つの言葉を意識的に分けておくことで、自分の考えというものを育てたかったのではないかと思う。すごい人の本を読んで負けそうになるのを、なんとか書き言葉を鍛えることで対抗していた。今は大分年を取り、話し言葉と書き言葉が近づくことで生じる現象にも興味が出てきた。なぜかというと、年々、話すことに疲れを感じやすくなってきたからである。瞬発力が涸渇してきたというべきか。話しているだけだと言葉が痩せてくる。書くようにゆっくりと、いったりしたりしながら話せないだろうか、と最近は思っている。

 

 

お風呂から上がり、何気なくつけたNHK『プロフェッショナル』で校正者・大西寿男さんの特集がやっていた。冒頭の大西さんの言葉と、優しさと厳しさが漂う風貌に惹きつけられて最後までみてしまった。

 

「言葉が泣いている気がします。本当はもっとケアしてもらいたいのに」「この仕事ってなんというか、放っておくととすぐにむなしくなっちゃう仕事なんですよね」「作者もある意味、命がけで書いてきている。こちらも全身全霊あげてやる」


あれ?大西さんの言葉は対人援助にもあてはまるではないか。大西さんは誤字脱字だけでなく、インターネットや図書館を駆使した事実確認、文意の伝わりやすさにも自分なりにチェックを入れておられる。

 

番組の途中で大西さんはこうおっしゃっていた。「校正者の仕事って、クリエイティブな仕事ではないですから。(中略)コツコツコツコツした仕事ですし、(中略)自分の努力が評価されたり褒められたりとか、そういうこともあんまりありませんし、そもそも間違いを見つけて当たり前と思われているから、むしろ見落として何かがあったときに叱られるばっかりで。」 


あれ?この言葉も対人援助に当てはまることばかりではないか。医療では患者さんの困りごとから全てがはじまる。治療は患者さんの土俵に医療者がお邪魔する形で動き出す。クリエイティブなのは患者さんの側であって、医療側ではない。なかなか困りごとが解決方向に向かわない時には患者さんからお叱りをうけることもある。僕自身は、どのようなしかたで患者さんの土俵にお邪魔するのか(どっぷりお邪魔するのか、片足でお邪魔するのか、そっとなのか、毅然となのか、そもそもお邪魔しないのか)について慎重な工夫がないわけではないのだが、その工夫はcreativityではなくて、responsibilityの範疇にあるというべきだろう。

 

大西さんは番組中盤、ご自身のスタンスである「積極的な受動」について次のように説明されている。「自分じゃない他の人、作者が一生懸命生み出した言葉に、一生懸命くっついていって。それって全く未知の世界ですよね。でも、そこが面白いんですけどね。」「物語を紡ぐ人に比べたら、自分は何も作らない。そういう意味で言えば何から何まで受け身というか。(中略)受け身になることで理解したり、発見したりすることもあるだろう。」 

 

これらの言葉もそのまま臨床的な「受容」に通じると思う。医療の「受容」には、単に「聞く」「聴く」だけでなく、「訊く」「問う」ことによって「理解する」という過程も含まれているが、大西さんの「積極的受け身」は臨床の知恵にそのまま通じる。ちょっと飛躍するけれども、いろんなジャンルのいろんな時代の言葉に向き合ってこられた大西さん自身の言葉には、自らの創造性を否定して聖書解釈に打ち込んできた神学者たちに近い含蓄があると思う。


番組最後で、大西さんは自身のプロフェッショナル性について、「言葉に満足してもらえる仕事をすること」とおっしゃっていた。大西さんが「依頼者や作者の満足」ではなくて、「言葉の満足」に言及されている点は注目に値する。医療では「全人的」という謎の言葉が横行しており、「患者さんのために」という言葉が金科玉条となって一人歩きしている。しかし医療の場合、患者さんの「こころ」がやりたいことに「からだ」がついてきてくれないという困りごとで来院される方が多い。うつやパニックは、「こころ」の言い出す無理難題に、「からだ」が悲鳴をあげている状態と言い換えてもよい。このとき、患者さんの「こころ」の満足を優先すればするほど、困りごとはひどくなってしまう場合がある。そのようなとき、僕は患者さんの「こころ」でも「からだ」でもない「いのち」を仮定し、「いのち」の満足をイメージすることで治療の方向性を探っていくように心掛けている(つもりである)。「いのち」というと大げさかもしれないが、大西さんが「言葉」と表現されている事柄を、僕は「いのち」に託しているような気がなんとなくするのである。

 

「縁の下の力なし」ということわざ(?)を、大西さんは校正者の自己規定として挙げられていた。この職人的で謙虚なプライドのあり方は、「デクノボーと呼ばれ」たいと願った宮沢賢治にも通じるかもしれない。「コツコツ」ではなく「コツコツコツコツ」と述べられた大西さんの姿勢に、学ぶところが多いように思った。良い番組だった。

新年があけて初温泉にいってきた。3年前から月に1度ぐらいのペースでどこかしらの温泉に入っている。はじめの2年間は、高温サウナ15分→水風呂5分の往復を3回ぐらい繰り返すのが気に入っていた。続けているうちに、ちょっとでも運動すると汗がでる体質になってきたので、新陳代謝が良くなってきたのかなと喜んでいた。だだ、さらに続けていると、温泉からの帰り際に強い眠気と疲労感がでてくるようになってきた。高温サウナ計45分が身体に負担になっているのかなと考え、1年程前から水風呂の後いきなり高温サウナに戻らずに、途中に低温サウナを挟むようにしたのだが、これがなかなか良い。

 

高温サウナにはいると、5分ぐらいで全身汗だくになり、10分すぎると頭がぼんやりしてくる。一方で、低温サウナの場合、5分ぐらいで首から上の部分だけ汗がでてきて、10分すぎると首から下にも汗をかくけれど、やはり首から上の汗の方が多い感じになる。そして、不思議なことに低温サウナを挟んでから高温サウナにうつると、高温サウナで15分ぐらいいても疲労感が出ないし、むしろ頭がスッキリした感じになるのである。最近は、水風呂5分、低温サウナ15分、高温サウナ10分ぐらいで1サイクルとしている。

 

低温サウナでおこるスッキリ感は露天風呂では起こらない。露天風呂では頭が冷えて身体が暖まるわけだが、低温サウナは身体よりも頭を暖める感じである。おそらく、外部の温度に応じて首から上と下の血流分配をコントロールする仕組みがあるのではないかと思われるが、現在の僕にはその仕組みに対する生理学的説明が思いつかない。もうすこし観察を続けたいと思う。

NHKプラスができてから、リアルタイムで見れない番組をあとから見られるようになった。先日、『こころの時代』で漫画家高浜寛さんが出演されている回を観ることができた。番組の中で高浜さんが『ニュクスの角灯』という作品で引用した「二ーバーの祈り」の冒頭部分が紹介されていた。とても考えさせられる言葉なので、原文と僕なりの直訳を掲げておく。

 

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,
Courage to change the things which should be changed,
and the Wisdom to distinguish the one from the other.

 

神よ、あなたは私たちにお与えになります、

恵みを、変えられない物事を静かに受け入れるために、

勇気を、変えるべき物事を変えるために、

そして知恵を、変えられない物事と変えるべき物事を見分けるために。

 

番組のなかで高浜さんは、変えられない物事の例として「他人」を、「変えるべき物事」の例として「自分」を挙げられていた。そのような解釈もできるだろう。

 

僕はちょっと違う解釈でこの祈りを理解した。変えられない物事とは「いかなることをしても自分は逃れようもなく自分であるという根源的な事柄」であり、変えるべき物事とは「その根源的な事柄に根差していない物事すべて」である、僕はそう解釈している。滝沢克己先生、小川修先生に強く影響された解釈であるが、ごまかされずに真実を追い求めるとその解釈に当たらざるを得ないのではないかと思う。

 

1行目を「神よ、私たちにお与えください」と訳すことが多いだろうが、祈願文としてではなく普通の直説法として訳したほうがより真実に根差していると僕には思われる。「もとめよ、さらば与えられん」ではないが、恵みも、勇気も、知恵もすでに与えられていることを知ることから本当の人の道が始まるのではないだろうか。