『コクリコ坂から』 -過去に向き合うこと- | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

スタジオジブリ最新作、『コクリコ坂から』を観てきた。


『耳をすませば』に通じる久々にストレートな恋愛模様を軸に、東京

オリンピック間近の横浜の様子が描かれている。とても後味のよい、

すがすがしい作品だった。


主人公の通う高校では、「カルチェラタン」という旧制高校のような

勉学にかぶれた男子学生たちの巣窟の取り壊し問題が勃発していて

それが、ストーリーに彩りをそえている。


個人的には、一度目の大学生活をすごした某大学のサークル棟が

「カルチェラタン」そっくりで、とても懐かしい気持ちになりながら見ていた。

男子学生は、学問に凝りだすと急に面白くなる、そういう生き物なのだ。


むろん、そうした面白い男子学生は常に物語の「にぎやかし」にすぎない。

主要人物である風間少年や生徒会長水沼君は、ものすごくさわやかで、

学問くささなんてみじんも感じさせない。その点が、学問くさい側にいると

自認する僕としては、やや残念である。


この映画にはタイトルをはじめとして、フランス語が頻出する。基礎単語を

いくつか知っていると面白く見れるかもしれない。僕のフランス語の知識は、

二回目の大学生活の一年目で培われたおそまつなものであるが、

それでも主人公の少女のニックネームの意味に気づくことができた。


一緒にみていた相方さんの指摘によると、主人公の女の子が読んでいた

本もフランス語のものだったようだ。高校生なのにあっぱれだ。

船の旗信号もでてくるので、その知識もあればなおよいかもしれない。


ちなみに「カルチェラタン」もフランス語なので、知りたい人は自分で調べよう。

この古くて汚い男子学生の巣窟は、女生徒による大掃除で美しく変身する。

掃除前は「我思故我有」だった哲学研究会の看板が、掃除の後になると

「我思故我在」になっていたのは、小ネタか?謎だ。


風間俊の声に岡田純一を、水沼史郎の声に風間俊介をキャスティングする

というユーモアも面白い。そういう細かい見方をすると色々面白い映画である。


さて、この映画の主人公である若い二人は、「自分たちの出生の秘密」という

壁にぶち当たる。結局、秘密にちゃんとむきあうことによって二人は前進する。


僕は、この点に、『コクリコ坂から』が現代ではなく、過去の日本を舞台に

とらなくてはならなかった理由が見出せると思う。


『耳をすませば』は、現代を舞台にしていなければならない。その一方で、

『コクリコ坂から』は、過去を舞台にしていなければならない。

なぜなら、『耳をすませば』では、自分の才能の発見がテーマだったのに対し、

『コクリコ坂から』では、「過去と向き合うこと」がテーマだからだ。


主人公の若い二人が、「出生の秘密」という過去に向き合ったように、観客は

東京オリンピック間近の日本という過去の歴史に向き合わされる。


人が現在において社会に生きるということは、出生、名前、過去の歴史といった、

自分の力ではどうしようもないものに囲まれて、それを受け入れることによって

はじめて成り立つ。この作品はそう言っているように思われる。


通常、私たちは、過去を知らなくても生きていけると思っている。その通りだろう。

しかし、その生は知らないうちに歴史のうねりのなかに位置づけられてしまう。

人権、戦争、高度経済成長、法律。こうしたものは、人が知ろうと知るまいと、

そんなことには関係なく、超越的に現在の人々の生活に影響を与えている。


このような超越的な事柄は、過去の人々の思いによってつくられてきた。

だから、過去の人々の思いを理解しなければ、現在に生きる我々は、未来を

作っていくための思いを持てないのではないか?


いや、過去の人々の思いを理解しなくとも、未来はやってくる。そう反論でき

そうではある。しかし、その場合、やってくる未来は、人々の思いを欠いた、

空虚な未来ではないか。そして、その空虚な未来は危険なのではないか。

そのような憂いが、『コクリコ坂から』の背後にはある気がする。


民主主義は、人の思いがあるという前提でなりたっている。

人の思いがなくなった民主主義は、すこぶる危険である。

この点は、なんだか賛成できるような気がするのだ。


映画館からの帰り道、なんとなく大島渚監督の『日本の夜と霧』を、僕は

思い出していた。ほとんど忘れ去られてしまったこの大島渚作品とは違い、

『コクリコ坂から』が忘れられないといいのだが…。