ひとくぎりのついたゆえ、偶像崇拝。 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

昨日、めでたく前期テスト終了してきました。

4日間、短い睡眠時間でしのいだので、そろそろ体力の限界。

あまり大きな声では言えないが、試験一日目と二日目の夜には、

連続で会にお呼びいただき、お酒を飲んでしまった・・・。


さすがの相方さんも、少々あきれぎみ。す、すいません。

彼女は、不規則な僕の試験勉強の生活ペースについて、文句も

言わずに、アイスやコーヒーを差し入れてくれたりして応援してくれ

ている訳で。頭が下がります。お仕事忙しいのにありがとう。


なのにお酒飲をのむとは・・・我ながら、緊張感がないとやや反省。

後期からは専門科目がはじまるのだから、初心を忘れずにいか

ねばならないと久々に殊勝なことを思いついた自分に喝。


結果については若干不安。九月の再試験に呼び出されるかどうか…

もやもやしてるわけではありますが、なにはともあれ、試験を

とりあえず終わることができ、とってもとってもうれしいです。はい。

実は、レポート課題が二つ残っているが、それはこれからの

お楽しみ。自由に色々かけるレポートの方が断然好きである。


さて、お題の「偶像崇拝」について。


先日、芸術学の講義で岡倉天心についてのビデオを見ていた。

すると、岡倉天心が、明治の廃仏毀釈でずたずたにされた仏像の

修復事業を、在野で立ち上げたことが取り上げられていた。


「仏像」は神学を学ぶ者にとって、若干距離感が難しいテーマだ。

キリスト教では形ある像を崇拝の対象とすることを否定的に

扱っている。(ちなみに、東方教会のイコンは、偶像ではなく

「窓」であるらしい。)


そのビデオを見ながら、僕はある事に気がついた。


ふつう、キリスト教圏で偶像崇拝を否定するのは、偶像を神と

みなすことが誤解であると考えるからだ。つまり、本来、神は

見ることも触ることもできない、普通の人間には認識できない

存在なのである。だから預言者が必要とされる。ゆえに、神を

かたどった形象はすべてフェイクなのである。


しかし、日本の像は、若干ニュアンスが違うのではないか。

日本では、神的なものがそこらじゅうに溢れている。だから、像を

つくり、そこへ神を宿ってもらおうとしたのではないか。像は、神の

居場所を決めるために必要なのだ。野放しになったままの神は

人間に災厄を招きかねない。仏像もそのような感覚の延長線上に

あるのではないか。


したがって、日本の仏像を単純に偶像崇拝という西欧的な枠組み

の中で見てしまうことは、あまり的をついていないのではないか?


そんなことを考えた。たんなる思いつきにはすぎないけれど、

「偶像は全部だめ」というのも息苦しい、と普段から思っている僕には

新鮮な思いつきだった。


偶像崇拝を日本的に考えるなら、小林秀雄の『偶像崇拝』を読まないと

いけないけれど、読んだら全部書いてありそうなので、さぼってます。


さて、レポ-トを書くのは中断して、『コクリコ坂』に相方さんと

いってきますかね。