いまさら、司馬遼太郎。 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

恥ずかしながら、三十路を前にして、長い夏休みをいただいている。

大学の定期試験も、なんとか無事に再試験なしで乗り切れた。

レポートも終わったので、残り約一カ月間、自由な時間を持てる。


8月頭に、前の大学の同級生たちと集まる機会があった。働き盛りの

彼らと話していると、夏休みを無為に過ごすわけにはいかないという

思いを新たにさせられた。


だからかどうかはしらないが、大学の図書館をぶらぶらしているときに、

司馬遼太郎の講演集という3巻本が目にとまった。


司馬遼太郎の小説は、『項羽と劉邦』と『梟の城』だけ読んだことがある。

しかし、司馬遼太郎の講演や評論、エッセイを読んだのは初めてだった。

すこぶる面白い。歴史の教科書には出てこないレベルの細かい事実が、

これでもかと披露されている。膨大な書物にあたり、そして本人や子孫に

直に接する機会をもっていた司馬さんならではの貴重な分析を気軽に

読めるのは、ありがたいことだ。


講演集を読み終えた後は、もう止まらなくなって、司馬さんのエッセイを

おさめた中公文庫を3冊購入。それも読み終えると、とまらずに図書館で

NHKブックスから出ている『「昭和」という国家』、『「明治」という国家』を

借り出し、その日のうちに読了。最後の締めにと、ドナルド・キーンと司馬

さんの対談をおさめた『日本と日本人』(中公新書)も図書館で借りた。


司馬さんの歴史観は、「司馬史観」と呼ばれ、しばしば(笑)批判の対象に

なってきた。しかし、司馬さんの本領は、歴史上の事実に対する評価では

ない。そうした歴史の評価をめぐる論争は歴史学者がすればよい。


司馬さんの真骨頂は、歴史の記録から事実を再構築するだけではなく、

そうした歴史の事実の現場にいた人間の精神を見とおそうとするところだ。

僕にはそう思われた。「歴史」というと、「過去に起こった事実」だと思われ

がちだが、「事実」に直面している「人間」を捉えるからこそ、司馬さんは

研究者ではなく、小説家たりえたのではないだろうか。


僕に言わせれば、「客観的な歴史」というものはあり得ない。

野家啓一の本にも同じことが書いてあったと思うけど、結局、歴史という

時間と現象の集積は、記述されるときに、必ず取捨選択されることになる。

現象をすべて記述しつくすことはできない。特定の事実に注目・抽出する

ことではじめて、歴史の記述は一貫した物語として理解しうるものとなる。


司馬さんの歴史も、特定の事実にフォーカスすることで、人物に新たな光

を当てている。だから、司馬さんの歴史は当然、事実(ファクト)に基づく

ものであるけれど、どの事実(ファクト)にフォーカスするかは、司馬さん

独自のフィルターを経ているはずなのだ。ゆえに、「司馬史観は偏っている」

という批判はおかしい。偏っていない史観などありえないからだ。

もし、偏ってない史観がありえるとしたら、それは人々の実感からはるかに

かけ離れた味気のない史観になるに違いない。


全体として、司馬さんの評論は面白くよんだのだけど、哲学、宗教学を

フィールドとしている僕にとって、どうしても違和感を感じざるをえない点

があった。それは、司馬さんの、宗教への態度である。


司馬さんにとっての宗教は、イデオロギーの一種である。お酒のように

人々を酔わせるものである。この見方自体は面白い。しかし、そのような

見方だけで宗教を捉えるということは、宗教を、それが人々の行動に与える

機能にのみ注目するということである。


たしかに、宗教は人々の行動に影響を与える。そのような影響力をもつ

ということは重要ではある。しかし、この見方は、宗教を道徳の方面からのみ

見るということになる。それゆえに、宗教の存在論的な側面、すなわち

道徳・倫理の背景となる存在論的な洞察は、司馬さんの思索の中であまり

顧みられていない。この点が本当に残念だとおもう。


宗教が普遍性をもつとすれば、それは宗教独自の道徳ゆえにではなく、

宗教が存在をどうとらえるかという点の洞察が的をついているからなのだ。

別言すれば、道徳や倫理は、宗教にとって結論であり、前提ではない。

宗教にとっての前提は、人間はいかなる存在かという洞察である。

道徳・倫理が、さまざまな宗教の違いを生むのではなく、人間存在への

洞察こそが多様な宗教を生んできた、と僕は思う。


司馬さんは、人物の精神について深い読解を残しているけれど、宗教に

ついては、外形のみの観察にとどまっていて、宗教の精神にまで到達して

いないのではないか。


たとえば、司馬さんと井筒俊彦との短い対談は、肝心の点で噛み合わない。

イデオロギーとして宗教を読む司馬さんと、存在の真理を解明する思索

として宗教を語る井筒さんの温度差が、その噛み合わなさを生んでいる。

僕にはそう思われた。


すっかり司馬さんにどっぷりつかった二週間をすごした。

歴史観への評価云々の前に、八戸は青森より岩手とつながりが深いとか、

加賀一向宗というとても宗教的な集団の支配していたことのある地域から

鈴木大拙と西田幾多郎がでてきて、禅学と哲学を浄土真宗的に深めたという

指摘は、思想史をやっているだけでは出てこない斬新な意見だと思う。


だんだん、司馬さんの話の展開を予測できるようになってきたので、

ひとまずこれにて司馬さんの本にひたるのは終了。


素晴らしい本は、読み終えた後、さらに別の本を読みたいなと思わせて

くれることが多いが、司馬さんのエッセイは、間違いなくその類の本だ。


司馬遼太郎という稀有な巨視的感性をもった人の知識に触れて、

あまりにもたくさん、考えるべき問いをもらったような気がしている。