『本当はちがうんだ日記』 -ごまかさない思考の行く末- | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ふと立ち寄った恵文社で穂村弘の『本当はちがうんだ日記』(集英社文庫)を衝動買いした。


歌人でもある著者のエッセイ集である。

すぐに読み終えたけど、そのうち特に『この世の「大穴」』という2ページ足らずのエッセイに激しく共感した。


そのエッセイにおいて、平たくまとめると穂村さんはこんなことを言っている。

「人間には、一人一人それぞれいいところがある」という考え方の境地は「この世の大穴」であり、

その大穴だけには僕は引きずり込まれたくない、と。

そして挙句の果てに、穂村さんは、ヘルマン・ヘッセが晩年にたどり着いた人間賛美の境地についても、

「もし、その境地が生きることの答ならば、やりきれない」と述べる。

僕もそう思うのだ。


もしかすると誤解する人がいるかもしれないが、

穂村さんの言う「やりきれなさ」は、「きれいごとがきらい」とか、そいう類の感覚からくるのでは断じてない。

そうではなくて、「人間には、一人一人それぞれいいところがある」という一見究極の肯定に見える境地には、

実はおおきな「ごまかし」が含まれている、その点が「やりきれない」というのだ。


その「ごまかし」とはなにか。

それは、「一人一人それぞれいいところがある」という文句の前に、常に、「ある意味においては」あるいは、

「ある価値観の中では」という但し書きが省略されている、ということである。

つまり、穂村さんが「大穴」と呼ぶ境地は、正確には次のように表現される。

「人間には、一人一人”ある意味において”それぞれいいところがある」と。


したがって、「ある意味において」という但し書きがついた「いいところ」とは、

すなわち、「みんながそれぞれの土俵でだしているいい味」という意味であり、

つまるところ、それぞれの人の土俵は重なり合うことがない。

同じ土俵において、みんながお互いの「いいところ」を認め合うことは、「現実にはできない」のだ。


にもかかわらず、「ひとそれぞれいいところがある」といわれるとき、

あたかも、同じ土俵において、みんながお互いの「いいところ」を認め合うことが「できる」ように語られている。


そんなことは、ありえない。

たとえば、僕が、誰かに褒められたとする。

そのとき、僕は、強く思う。

「ほめてくれて、ありがとう。でも、あなたがほめている僕は、本当の僕ではない。ごめんなさい」と。


おそらく、本当の意味で他者を認めるということは、「他者のいいところを認める」という方法ではなく、

「他者が私とは全く異なった存在であることを認める」という仕方でしか、原理的には不可能なのだろう。


他者の他者性を、その他者性という否定性において肯定する。

「非同一性の哲学」という、テオドール・アドルノがたどった苦渋に満ちた思索において、

彼は、ここで僕がつぶやいたようなことをめぐって言葉を紡いでいたのではなかったかと、僕は思っている。


でも、こんなややこしい思考に、何の意味があるのだろうか?

ここまでして「ごまかしたくない」とこだわることに、どれほどの意味があるのだろうか?

そういった問いかけに、堂々とアドルノは答えられないだろう。


しかし、だれかに褒めてもらったとき、うれしさよりも、もうしわけなさを感じてしまうような人であれば、

その人の歩みは、どうもがこうとも穂村的、アドルノ的にならざるを得ないだろう。


もちろん、僕もそのうちのひとりだ。

だから僕は、完全には孤独ではない。