『小説の自由』 -はじめから無理な望み- | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

芥川賞作家、保坂和志の評論?『小説の自由』を読んでみた。

「新潮」に連載されていたエッセイ的な小説論をまとめて本にしたものである。


もともとこの作家の名前をみたのは、柴崎友香の『きょうのできごと』の解説がはじめだったと思う。

その解説は柴崎友香の文章をジム・ジャームッシュになぞらえているもので、非常に衝撃的だった。


その後、同じ著者の『プレーンソング』(中公文庫)を読んでみたら、すっと読めたけど、後になんも残らない感じ。

つづいて、同じ著者の『世界を肯定する哲学』を読んでみたら、まったく論理性が欠けていてよく分からなかった。

そのこともあって、若干おそるおそるこの小説論を手にとってみたのだが・・・。


連載ということもあるのだろうが、もやもやとした思いを、書くことで明確にしようとしている姿勢がうかがわれる。

したがって、著者の言いたいことをうまく拾えないかもしれないのだが、

おおまかにいって、保坂さんは、小津安二郎が映画でやったことを、文学でやりたいようである。


しかし、小津が映画でなしたこととは、映画でしかなしえなかった事ではないのか?

言い換えれば、保坂の意図は、はじめから無理な望みなのではないか?と僕は思ってしまうのだ。


説明が必要だろう。

小津映画の特徴として、保坂は、(1)ローアングル、(2)ワンカットが短い、(3)会話している人物を真正面から写す、の3点を挙げている。

しかし、僕自身は、小津映画の最大の特徴は、「人物ではなく、場所をとらえようとしている」ことだと思う。

ゆえに、小津映画では、フレームアウトした俳優を追いかけるという動性が決定的に欠落している。

人物が去った空間を映し続ける小津のカメラには、「なにかをやりとげる主体としての人間」は映らない。

このように「なにかをなしうる」人間に焦点をあてないがゆえに、

別の言い方をすれば、だれがどうするかということにあまり注力しないがゆえに、

小津映画には、めだったストーリーも、気の利いたセリフもあまりでてこない。


にもかかわらず、小津映画の画面は、めっぽう緊張感に溢れている。

それは、俳優の顔に「表情」があるからだ、と僕は思っている。

仮に、小津とおなじカット割りをアニメーションでやってみたら、あまりにも味気ない作品になるだろう。


「なにかをなしうる」から人間なのではなく、「表情」を持つから人間なのだ。

そんな洞察が小津の画面からは感じられる。


もし、このような僕の小津映画に対する意見がそれほど的外れでないならば、

保坂が文学において目指している方針とは、次のようにまとめることができるだろう。


「だれかがなにかをする」という点に注目しないことで、むしろ「表情」を活性化すること。


しかし、その方針は、映画では成立しても、文学では初めから挫折してしまう。

なぜなら、すべての空間・場所は主語なしで成立しているが、大抵の文章は主語を必要とするからだ。

つまり、「表情」を文章で表現しようとするとき、そこには、どうしても、主語(描写する主体)がでてくる。

「だれかがなにかをする」という点を抑えつつ、同時に「表情」を文章に表わすということは不可能なのだ。

一方をたてると、もう一方がたたない。映画では両立していたことが、文学においては両立できない。

そのことに、保坂さんは、自覚的でないように思える。


もうすこし、具体的に説明してみよう。

『小説の自由』には、短編小説『桜の開花は目前に迫っていた』が収録されているが、あんまりおもしろくない。

その原因は、上で述べたような保坂の無自覚なのではなかろうか。

この短編においては、主体の観察した出来事がこまかく繊細に描写される。

その描写は細かく、時にユーモラスでたしかにすばらしい。

しかし、保坂の描く主体は、観察した現象について、自分の考えをまったく述べない。

なぜならば、「だれかがなにかをする」という点が作者である保坂によって薄められているからだ。

それゆえに、主体が観察する現象がもつ「表情」までもが薄まってしまい、作品に緊張感が生まれない。

映画と文学では、同じ意図をもった手法が逆の効果を生んでしまうのだ。


では、文学において、「表情」を帯びた緊張感のある文章を実現するにはどうしたらいいのか。

保坂和志が賞賛する柴崎友香の文章がヒントになると僕は思う。


そもそも、柴崎友香の文章の特徴は、いたって主観的ともいえる描写だった。

柴崎友香は、文章の語り手に現前するすべての現象について、語り手が想起した思いをくっつけていく。

そういうしかたで、確かに彼女は世界の現象に「表情」をつけていく。

主体が現象に見出す「表情」が文章として表現されることで、緊張感をもった面白さが生まれるのだ。


もちろん、文学には他にも緊張感を出す方法はあるだろうし、そもそも緊張感はいらないという意見もありうる。

しかし、保坂自身が、この本の中で新宮一成の「掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである」という言葉を

引用して説明しているように、「小説は、読者の精神を寝かさないためにあるもの」ならば、小説には、緊張感が

必須なはずである。


この本を読んで分かったのは、新宮一成や、カフカや、クロード・シモンがすごいということだ。

次は、彼らの文章を読んでみることにしよう。