竹中直人監督 『サヨナラCOLOR』を拝見。
実は、竹中直人の監督作品は個人的に苦手である。
ねばっこいとか、くどいとか、しつこいとか、そんな感触がするのが苦手。
要するに、あんまり潔くない。さわやかさがない。
ま、それがいやかどうかは人それぞれ違っているとは思うのだけれど。
でも、この作品は予想よりもスッキリと見ることができた。
おそらく、原田知世のおかげだと思う。
案の定、竹中直人のバレリーナのシーンとか、くどいシーンもあるのだが(笑)
映画のモチーフになっているけど、SUPER BUTTER DOGの「サヨナラCOLOR」という曲の中に、
「さよならからはじまることもあるんだよ」って歌詞がある。
この「さよならからはじまること」ってなんだろうか?
この映画では、死んだ人が送られて、生き残された人が力を得て歩き出す。
ということは、「さよならからはじまること」とは、「日々を生きる」ことを指すのではないだろうか?
逆を返せば、僕らにとって、「日々を生きる」こととは、「さよならではじまること」ではないだろうか?
「人は、他者を見送るために生きている」
これは、僕が酔っぱらった時に、たいていつぶやき始めるテーマである。
親しい人と別れる。その別れは、死別でもいいし、明日また会えるレベルの別れでもよい。
その別れにおいて、相手を見送る。これが、僕の実感する「日々を生きる」ことである。
もうひとつ、「さよならからはじまる」ことの候補が、映画では示されている。
それは、ゴミとして捨てられたガラス破片をあつめて作られたランプ。
人が見捨てたガラスを通過すると、光はやさしいぬくもりを帯びるのだ。
このランプのモチーフは、民俗学者の宮本常一の言葉を思い出させる。
「私は、人が捨てたものだけを見ようとしてきました。」(『庶民の発見』、講談社学術文庫)
捨てられたもの、それはつまり、役に立たないものである。
でも実は、そういう捨てられたものを見る視線こそが、この世界を守っているのではないだろうか。
もし、みんながおんなじ方向を向いていたら、あっというまに極端な暴走までいってしまうだろう。
極端な暴走によって、世界がにっちもさっちもいかなくなったとき、
最後の砦として、人間が頼りにできるのは、いままで自らが捨ててきたものだけだ。
世界を動かすものと、世界を守るものは、まったく違うのだ。
前者は常に中心にいて強く、後者は常に周辺にいてささやかだ。
ほとんど映画本体とは関係のない話になってしまった。
でも、『サヨナラCOLOR』を観て、こんなことを感じてしまうような人間なのだ、僕は。
せめて僕ぐらいは,、僕を好きでいてあげたいものだ。
いや、できればもうひとりぐらい、僕を好きでいてくれるとうれしいのだが。