『光州5・18』 -ものすごく重い問いかけ- | Nothingness of Sealed Fibs

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「光州事件」を描いた韓国映画『光州5・18』を見てきました。


光州事件は1980年におきた韓国の民主化運動を象徴する事件。

当時の軍事政権が発令した戒厳令に反対する大学生グループと、軍隊の衝突がエスカレートし、軍隊による市民の無差別殺戮がおこなわれた。その殺りくや、市民軍と軍隊との衝突で、多数の市民が犠牲になったことで知られているらしい。


この映画は、政治的な運動とはまったく関係のないタクシードライバーの主人公が、軍隊の無差別殺りくによって家族を失うなかで、否応なく事件に巻き込まれ、愛する人を守るために市民軍に身を投じる姿を描いている。


観る前から、悲しい映画であることはわかっていたのだが、いざ見てみると、本当に自分の身の置きどころが全くなく感じられるほど、身につまされる作品だった。一緒に観にいった人の感受性に刺激されて僕も、涙を流してしまった…。


僕は、政治的な信念をなるべく持たないようにしてきた。

唯一信頼しているのは、自分の精神が自由に思考できること。(自由に行為できることではない。)

政治的なあらゆる立場もとらない。これが僕の立場だった。


でも、この映画を前にして、主人公が市民軍に身を投じたかどうかの是非だとか、軍隊がおこなった殺戮の是非とか、政治的立場について考えるのは、なにやら大きな勘違いな気がする。

それは、この映画が、政治ではなく、愛についての問いを突き付けてくる映画だと思うからだ。


もし、軍隊の代わりに、荒れ狂う大自然が、人間を殺戮するとしたら、どうだろうか。

愛する人を守るために、僕は立ち上がることができるだろうか。

立ち上がらずに愛する人のそばにいれば、愛する人と自分が確実に助かるとわかった時、僕はたちあがって自分だけ死ぬ道を選ぶのか、それとも助かるために愛する人のそばにいくのか。


どちらでもいいんだと思う。

正確にいえば、どちらとも、間違っているとは言えない。

懸命に死んだ人、懸命に生きる人に向って、あなたは間違っているといえる思想なんてないのだから。

間違いうるのは、その人ではなく、その人の思想だけだ。

死は死として、生は生として、他者からの評価からは隔絶している。

同時に、どちらも、正しいとも言えない、と思う。

どちらの選択肢でも誰かが傷ついてしまうことは確実だから、悲しみが発生するのは避けられそうもない。


では、僕なら、どうするだろうか。

正直にいって、いくら考えても、考えただけではわからなかった。

正義か、愛かという二者択一ならば、迷わずに愛を選ぶんだけどね。

この映画の問いは、そいういう簡単な図式ではない。

ただ、この映画のような苦しい問いに直面しなくてもいい世界に僕は生きている。そのことに感謝するしかない。


というわけで、『光州5・18』という作品は、映画として評価することをためらってしまう類いの作品である。

視点がいいとか、構図がいいとか、映画的な時間が流れているとか、そういうことをいってられない映画である。

でも、ついつい考えさせられてしまう映画ではある。だから、すばらしい作品なんだと思うのだ。


おそらく、この映画のような状況で、痛みをともなわない選択肢を選ぶことはできない。

考えるだけなら、「選ばない」という回避策もある。

でも、現実に「選ばない」という逃げ道はない。わかっていても、飛び込まなければならないのだ。


映画とは、少しずれるけれど、もし、僕が愛する人よりも先に死んでしまうとしたら、

僕のことは早く忘れてほしいと思う。そして、もっと生きている人のことを考えてほしいと思う。

愛する人が、簡単に僕のことを忘れてくれるくらいの、心の強さをもった人であってほしい、と願う。

そういう、心の強さを、僕は優しさと呼んでみたいのだ。