法隆寺金堂の落書き | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

戦中から行われていた法隆寺金堂の解体修理の際に取り外された天井板の落書き(A)とは別に、取り外されなかった部分に落書き(B)が発見されたという、たったそれだけの記事です。

 

 

記事中(A)にあった文字(漢字)については公表されているものの、その解釈について話題にする学者は殆どいません。

 

 

明治以降の“非再建vs再建”論争では若草伽藍が争点ですが、よくよく考えてみると、移築も再建に分類されるべきであって、落書きといえども移築を証明するには文字の存在は重要です。

 

 

落書き文字群(A)にある「肺出」が天文学的には6176月に観察されたハレー彗星のことであり、落書きの時期から算定すると金堂は翌618年竣工したと米田良三氏は『法隆寺は移築された』で述べています。

 

 

金堂が618年に竣工したとすれば、定説で言う607年の法隆寺完成とは全く辻褄が合いませんし、“670年に全焼した”と『日本書紀』にある伽藍のうち 617年に落書きされた金堂が現存しているなんて有り得ません。

 

 

“ 大和朝廷がまだ確立していない 倭国九州王朝時代 607年 大宰府に観世音寺が着工。618年 竣工。672年 壬申の乱で勝利した大和朝廷が 710年 観世音寺を分解して瀬戸内海経由で運び斑鳩に移築し法隆寺と名付けた。”

 

 

自分の教養を否定されたり、全く知らない説を聞かされたりするのはつらいかも知れませんが、一先ず 新しい説を吟味する心の余裕は欲しいものです。法隆寺伽藍の美醜論争は移築論争でもある。

 

 

  この態度をワクチン騒動に際しても応用出来ておれば、後悔しなくて済んだ人も多いのではないでしょうか。https://x.com/i/status/1796823409164489083

 

 

5・31/日比谷のデモ集会・行進についてメディアは全く報道しませんでした。

 

 

その日に備え、気象庁の台風・豪雨班も全力(目がないのに台風1号の呼称等)を尽くしたのですが、雨の影響は全くなく、デモは大盛況。

 

 

頭に来たらしく63日ラジオ体操のスタートに合わせ“チャラン・チャラン”。

 

 

奴らはヤケクソのようです。

 

 

最近の世の中の流れを見るにつけ、古代であっても現代と同様 悪事は蔓延っていた筈であり、法隆寺の歴史もその例外ではありません。

 

 

絶対に知られてはならないことがあるのです。

 

 

古代からズ~ッと秘密を守る努力が今も続いているのは明白です。