倭国九州王朝の存在を否定すると、その後の権力構造の説明が難しい。
米田氏の説は分かりやすいのだが、それでも始めの頃は理解できず、苦しめられた。
前回の続き
中国の正史『宋書』に遣使した倭国王の名が記される。
421年の倭讃に始まり、珍、済、興そして武の5人の王で「倭の五王」と呼ばれる。
倭薈は最後の倭武(いぶ)の息子として500年に生れ、11歳で倭国王となる。
そして32歳の531年に大和朝廷の先祖である継体(けいたい)に殺害される。
生前すでに大聖人であったと思われ、日の丸のイメージを具現化していた。
因みに君が代は倭国王家を讃える歌として500年頃にはすでに一般に歌われていた。
倭薈は死後、仏教徒から阿弥陀如来と呼ばれ、神徒からは八幡大神と呼ばれ親しまれた。
入れ墨をした特異な王であったからか、ヤクザも八幡大神を祭った。
また大和朝廷は継体天皇の先祖に倭薈をモデルとした応神天皇を置いている。
倭薈を殺した張本人であることを悟られないための組み立てなのであろうか。
『列島合体から倭国を論ず』で述べたように、『日本書紀』の編集に携わった元倭国文化人はこの組み立てを利用して、倭薈の生まれた年、王となった年などを正確に記録した。
そして『日本書紀』後の日本人は応神天皇の名前を利用し、倭薈の業績を語り継ぎ、記録してきたのである。
つまり国父倭薈は阿弥陀如来と八幡大神と応神天皇を足した存在である。
生前の20年間は国王であり、大聖人として生きたであろう人物である。
大和朝廷はこの人物の存在を日本人が知ることがないようにしてきたのである。(続く)
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