現在、多くの日本人が自分の好みで神社やお寺を選んで初詣することは不思議でもなんでもないし、信仰について聞かれると「無宗教」と答える理由は大和朝廷の始まりから、ひとえに神でも仏でもある国父倭薈の存在が隠されているためである。
名前を二つ持っている日本人(?)は阿弥陀=八幡大菩薩を拝む立場ではないので初詣には出掛けない筈だ。
周りを観察してみよう。
前回の続き
倭讃の時代、418年に火火出見(ほほでみ)(神武)は近畿地方の狗奴国を征服する。
これによって日本列島は統一されたが、その後、458年に若狭、福井辺に(南朝鮮を経由して)上陸した天皇家が勢力を増し、やがて近畿地方を勢力下に置いた。
531年の磐井の乱の継体軍6万は、天皇家の直属軍と主に元の狗奴国の人びとによって構成されていた。
倭薈を殺された倭国民は怒り、悲しみ、継体軍関係者を畜生にも劣る者と差別した。
当時のアジアからは倭薈のもとに多くの僧が集まっていた。
そして彼らも同様に継体軍関係者を許せないと思い、自分の国に戻ったようである。
しかし時間が過ぎれば彼等は許される。
倭薈の教えが、たとえどのような人でも極楽に行きたいと思えば行けるというものであったからだ。
乱後復興に始まる140年間が倭国文化の高潮期である。
のちに大和の地に移築される薬師寺、東大寺及び法隆寺はこの期に造られるし、風土記、万葉集、源氏物語も出来上がる。
乱の罪を許された天皇家は再び勢力を盛り返し、扶桑(ふそう)国を造り、672年に壬申の乱によって慈悲の倭国王家を滅ぼす。
そして倭国王の地位に代わって座り、倭国民を統治する。
統治の手段として磐井の乱後に行われた怒りの差別を復活し、被差別部落民を顕在化させた。
旧倭国民の統治に対する不満を被差別部落民を置くことで解消させたのである。
被差別部落民は672年の壬申の乱までは公式の天皇家の家来であったのだ。
この入り組んだ差別の構造を理解しない限り、この問題の解決はない。
また天皇家の大陸から行動を共にした直属軍は国外に移動した記録はなく、日本の中に配置されたことは明らかである。
磐井の乱の時点と太平洋戦争敗戦時の日本の構成を図示すれば次のようになる。
理系ならではの集合論的表現は見事。
この図でさえ、始めのころは良く理解できなかった。
右の大ピラミッド内のドットは さしずめ工作員諸君といったところでしょうか
お知らせ
「米田建築史学シリーズ」全4冊セット(限定20セット)が出来上がりました。
発送準備中ですので、しばらくお待ち下さい。