「安寿と厨子王」の物語の続きです。「日本国」が東北のことなのか、新たに「日本」を名乗る従来の「倭国」を指すのか混乱しないように注意して下さい。
厨子王は山椒大夫の追っ手に追い付かれながらも、丹後の国分寺の聖の手により助けられ、上洛(大宰府へ)を果たす。
(法興)帝に目通りがかなうと父親の罪の許しを求め、事件を報告したのが600年の事と思われる。
この年の初めには第一回の遣隋使を送っている。
隋の冊封国家としての 朝貢である。
帝は奴隷解放令を発布して五十年以上が経つ倭国で拉致事件が起こったことに当惑されたものと思われる。
帝は日本国王を許し、厨子王に丹後の国を与え、事件の処理を任せる。
帝は太夫と言う倭国の大人と認められた二人が起こした拉致という事件にショックを受けられ、倭国の雅ならざるを悪(にく)み 、「倭」という言葉の使用を禁止されるにおよぶ。
601年には 年号を「願転」とし、人心が善に支配されることを望むと宣言された。
この年に光源氏は生まれている。
厨子王は父王を連れて早速に丹後の国へ向かう。
しかし、姉安寿は三郎による火責め、水責めの拷問で命を落としたことを再会した国分寺の聖から聞かされる。
聖により荼毘にふされた安寿の形見は一房の髪のみ。
厨子王は山椒大夫と太夫の三男に極刑を科し、太夫の長男と二男は許す。
長男は僧となり、二男には丹後の国を与える。
次に直井の浦に行き、山岡太夫と船頭を極刑に科し、母を佐渡島に見つけ出して日本国へ戻ったのである。