今回の‟あとがき”は長く、難解ですので5回に分けます。
学校で習った歴史がものすごく邪魔になります。
歴史から全く消えてしまった王朝の話なのですが、知っている名詞も登場します。
しかし、それはあなたの知っているものとは違います。(例えば 奈良)
匙を投げないでくださいね。
2014年の日本の問題の一つは北朝鮮による拉致事件をどのように解決するかである。
加害者が個人であれば捕まえて罰することで事は済むが、おそらく加害者は国家であり、外交交渉によって解決するか、戦争を戦って拉致被害者を取り返す以外にない。
百人近い拉致被害者がもし米国人であったら、すでに後者によって解決させているに違いない。
しかし、拉致は戦争の結果としてイスラム過激派のボコ・ハラムやイスラム国で進行しており、国連を含めた国 際社会は解決の糸口さえ見出す術を持てないのが現状ではないだろうか。
千五百年前の倭国は奈良帝が筑紫京から奈良京に都を移した年に当たる。
514年から52 2年の間に奈良帝は隠国の初瀬に母である神功王后をモデルとした十一面観音像(長谷観音)を造り、長谷寺を創建する。
神功王后は国王の倭武(仲哀帝)の死が新羅国の陰謀によることを確かめて、新羅征伐を行ったことで知られる。
新たに長谷観音の霊験が知られることで、観音信仰が盛んになり、全国に諸国長谷寺が造られる。
諸国長谷寺には十一面観音像と奈良帝をモデルとした大日如来像が祀られた。
ところが、531年に六万の扶桑国(継体)軍による奇襲により、筑紫京は焼かれ、奈良帝は殺される。
535年奇跡が重なり、奈良帝をモデルとした阿弥陀如来が生まれ、阿弥陀信仰が始まる。
536年から宇佐の小倉山の西麓(東大寺)に阿弥陀大仏の鋳造が進み、570年には金光明四天王護国之寺が落成する。
並行して各国に国分寺・国分尼寺が造られる。