著者 米田良三氏は『長谷寺考』の終わりの部分で「664年5月以降、672年5月までの唐軍の倭国占領期間を契機に変化したもので、現代まで本質を知られずにあることを記して置く」と濃い密度の箇条書きにサマライズして述べている。
① 解体という名の破壊は徹底的であり、土以外のものは残さないのが基本であったようだ。
その土が雨で流され、近江の海という内海や、高瀬の淀を埋めてしまう。
ミッシングリンクという徹底した文化破壊を想定することによって理解可能となる。
② 移築先は近畿地方と、中国の山東半島、長安、成都である。
水上交通が盛んで、人力と風というエネルギーが利用された。
地名も、人民も近畿地方に移動。
人民の一部は中国にも移動する。
京都の祗園祭は倭京(大宰府)の祭りが移ったものだ。
普遍的国家を壊され、日本国民は奴隷以外の何ものでもない生活を強いられる。
③ 日本(倭)国の国旗は日の丸であった。
倭薈が造った豊山(磐井の墓)に建つ瓊(けい)殿を見たイメージ(装飾古墳の壁画の日の丸)が国旗となる。
清明上河図に描かれる賀茂川を行く船に日の丸を掲げたものがある。
国外に出向く船であろう。
④ 扶桑国の時代に造られた法隆寺の若草伽藍は678年の白鳳大地震で崩壊、焼失するその地震により斑鳩の地面は二十度左回転している。
若草伽藍の伽藍軸は、回転しており、後に移築された西院伽藍軸と異なる。
西院伽藍は678年以降に敷地が整備され、移築され、710年に完成する。
⑤ 延喜帝の奴隷解放令は無かったものとなり、宗教的差別である『無量寿経』の「唯除五逆誹謗正法」は復活し、被差別部落が再生される。
倭薈を殺した継体軍関係者が、再び天皇制の中で被差別部落として位置付けられ、日本国民の統治の道具とされる。
⑥ 継体の先祖は458年に朝鮮半島から現在の福井県に渡来した高句麗王朝の別れであり、継体は上陸前後に生まれていると考えられる。
江上波夫の騎馬民族征服王朝説は、部分的に誤りはあるが、正しい。
天皇家は日本に来て千五百五十二年目を迎える。(2010年1月3日 記す)
次回をお楽しみに!