『現代を解く・長谷寺考』前書きの終わりの部分です。
‟立ち読み”はまだまだ続きます。
400年前後の日本は筑紫首都圏の骨格が出来上がり、日本列島が倭国に統一された時期である。
仁徳帝の後、珍・済・興・武と四人の倭王が宋に貢献し、都も現在の太宰府都城の位置に戻っている。
本論で取り上げる倭王武の息子倭薈は広開土王の活躍から百年後の500年に生まれており、『逆賊磐井は国父倭薈だ』(1999年)で大略取り上げたが、今回は異なる方面からのアプローチを試み、合わせて500年代から600年代の日本に光を当てたいと思う。
第一部で扱うのは約千五百年前に造られた広大な施設(長谷寺)の遺跡である。
もちろん過去誰も取り上げていないし、ほとんど無傷のまま今に残っている。
当時の建物は(現地には)無いが、当時を復元できる諸々があることを示したい。
施設消滅後の姿を残そうとする千三百余年間の努力のたまものである。
おそらく数えきれない人々の力と時間が注がれていることは疑えない。
そのような見えない部分を想像で補って読まれることを期待したい。
私はその全体が人類の誇りと言える宝物と思うのである。
第一部を書き終わって現地を訪れる機会があり、故郷に戻ったような感覚を味わい、さらにその周囲の山容や自然と接することとなった。
第一部の主人公の一人である柿本人麿の歌が、それらの自然と次々と結びつくこととなる。
その情景の広がりをまとめたのが第二部である。
第三部は阿弥陀信仰の対象である阿弥陀如来が、ここで取り上げる倭国王倭薈の存在を置き換えたものである ことを、経典等から明らかにしようとする試みである。
次回(前書きの続き)をお楽しみに!