「米田建築史学シリーズ」全4冊  Web de “立ち読み” (その12) | 民営文化センター

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『現代を解く・長谷寺考』「前書き」の途中です。

 

住吉神社の博多古図について直々にレクチャーを受けました。

 

‟立ち読み”はまだまだ続きます。

 

 

内海は近江(あふみ)[美称の+倭人伝の不弥]の海と呼ばれ、和歌にわたの原と歌われる波静かな海である。

 

松が茂る住吉神社は内海に臨み、その先には蓑島(現・美野島)が浮かぶ。

 

この情景を記録したものがある。

 

住吉神社に奉納された絵馬で博多古図と呼ばれる。

 

現在は境内にそれを拡大模写したもの(写真)が掲げられており、だれでも見ることが出来る。

          

 

内海の上部(大橋、老司、井尻の三角部分)がデフォルメされているが、全体は的確に表現される。

 

博多古図に対応する、百人一首の二条院讃岐の歌がある。

 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 

      人こそ知らね乾く間もなし

 

恋歌として知られるが、室町末期の写本である『百人一首美濃抄』は次のように注している。

 

有吉 保 全訳注『百人一首』(講談社学術文庫)による。

むげんのそこにたかさ一まんり、ひろさごまんりほどのいしあり。このいしのうちくわゑんのごとくもゑたちて、もとはたいかいなればぬるゝなり。わがこいもむねのうちはもゑて、そとのたもとはぬるゝなり。

 

「むげんのそこ」、つまり四十メートルの海底に「高さ一万里、広さ五万里ほどの石あり」と言う伝承が紹介されている。

 

歌には歌われていないが、海に積まれた石のことを前提にしないと歌の情緒は伝わらないことの説明である。

 

また、江戸時代に作られた博多の博物誌は『石城志と命名されている。

 

海に築かれた石城と言う認識は長く受け継がれてきたのだ。

 

しかしながら近代学問は、内海を想像する力がなかったためか、これらの史料を正当に評価せずにきた。

 

           次回(前書きの続き)をお楽しみに!