画期的な『古今和歌集』の研究成果に賞が与えられた、との報道です。
前々回、歴史はアマチュアの著作のほうが断然面白い旨書いたばかりですが、早速その実例を示す時がやってきたようです。
アマチュアである米田良三氏の文章を『柿本人麿の真実』から抜粋・転載します。
何の制約も無く自由にものが言えると以下のようになります。
法隆寺の建物がいつ造られたものであるかは、長い再建非再建論争を持ってしても決着はつかなかった。そして「昭和の大修理」により、和銅三年(710)に創建された建物であると結論した。
しかし、その元となった大部の「解体修理報告書」を見ると、金堂や五重塔が新築されたと判断した部分に論理性は無い。解体された建物を素直に判断すれば移築されたことは動かし難く、1998年法隆寺移築説を公表した。その後も多くの移築建物を発見することになる。
・観世音寺中心伽藍 →法隆寺西院伽藍
・観世音寺東院伽藍 →法隆寺東院伽藍
・観世音寺北面堂 →京都蓮華王院本堂
(三十三間堂)
・桂別業 →京都桂離宮
・宇佐霊山 →奈良薬師寺
・宇佐東大寺 →奈良東大寺
・初瀬長谷寺(九州) →大和長谷寺
・宇治平等院鳳凰堂(九州) →京都宇治平等院鳳凰
堂
・観世音寺大学寮 →京都渉成園(大谷大
学)
510年代から650年代にかけて、日本(倭)国の王室の所在地である九州北部に造られた寺院が、672年以降に大和朝廷により奈良・京都辺に移築されたのである。当然のこととして、奈良・京都の寺院の創建の物語は消滅している。文化は偉大であることだけを知らせ、中身は知らせないという大和朝廷の政策通りの結果となっている。ただ三十三間堂、鳳凰堂、学寮の移築主体は保存を意図した別主体と思われる。
そして、今回データの多い柿本人麿を追ったのであるが、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』の三つが、672年以前の日本にそれぞれ真本を持って存在していたことを発見することができた。
516年頃作られた『万葉集』は、672年以後に活躍した大伴旅人や山上憶良らの歌を加え、大伴家持が700年頃に編纂し直している。617年頃作られた『古今和歌集』に111首を加えて、905年の醍醐天皇の命により作られた勅撰和歌集として発表されている。そして651年頃作られた『新古今和歌集』は1205年に後鳥羽上皇の御意志に基づいて、藤原定家ら五人の選者が同時代歌人の歌と、672年から700年頃の歌人では大伴家持の歌を加えて選集している。
このように建築の移築に当たる行為が歌集にも行われているのである。このように解明して来ると、『古今和歌集』の仮名序は617年までの歴史を正確に伝えていることが分かるし、また『新古今和歌集』には、617年以降651年頃までの『源氏物語』に登場する人々の歌を見ることが出来る。
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故 米田良三氏の『続 法隆寺は移築された 建築史学入門』が古代歴史文化賞に応募したら、審査員の諸先生方はどんな反応を示すのでしょうか? そもそも読んでいただけるだろうか。読みたくないでしょうね。
西岡常一棟梁が法隆寺の移築を認めた事実は限りなく大きいと言わざるを得ません。