淡交社刊『大和 長谷寺』を読もうとしたが | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

長谷寺ファンなら、ひと目で、そそられる表紙です。

 

一昔前は今より元気があって、古書市に頻繁に出かけていました。

 

丁度、長谷寺に興味を持ち始めた頃で、掲載されている白黒写真が綺麗なのと、ためになる文章がいっぱいのように思えたので、迷うことなく買い求めました。

 

著者は文芸評論家の中でも重鎮のようで、森羅万象を知り尽くし、自信に満ち溢れ、圧倒的な上から目線の文体です。

 

期待して読み始めたのですが、色々講釈を聞かされた挙句、何かモヤモヤした感じが付き纏うのです。

 

最近、再びチャレンジする機会があったのですが、以前よりさらに読む楽しさが沸いてこないのです。

 

以前は当方の読解力・教養のなさが原因であり、その後の自分には全く進歩が無かったのではないか、と悩むところでしたが、前回と今回の印象が一致した理由を考えたところ、

 

そもそも、本書の内容がフェイクであり、それに気付かれないための言い回しは、読み手に不協和音的感覚を投げかけるのであって、自分は本能的にそのようなフィーリングに反応したのだと思います。

 

「米田史学」を学び、真実の歴史を知ってしまった現在では、更にその感を強くします。

 

逆の立場を考えてみるに、定説派が「米田史学」に感じるフィーリングは更に不快なものであると想像します。