大和長谷寺本堂には創建時(520年)の柱が使われている(改訂版) | 民営文化センター

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

分かりにくそうなので書き直しました。

 

『長谷寺本堂調査報告書』(2004年刊)には本堂の精緻な図面集(A)が載っていて、寸法は算用数字で詳しく「尺」表示されている。

 

mm」で記入されている平面図(B)も一枚あり、それらの数値を対比し、本堂が曲尺かィ尺のいずれをもとに建てられたかが特定できると期待した。

 

図面(A)の数字は実測値を303mm(曲尺の1尺)で割ったものが記載されているのは確かなのだが、切りの悪い数値が並ぶとともに、明らかに同じと思われる柱間の数値にもバラつきが目立つ。

 

これは建築図面でなく、調査計測図面であることは明らかであり、303281(ィ尺の1尺)のいずれの数値で割り算をしようが、建築に用いられた物差しの特定は困難と判断した。

 

さらに、米田氏の言うように、本堂が創建時(520年)のものとすれば、当然「内転び」の技法が用いられており、柱下端での計測は全く意味を成さない。

 

倭国と大和朝廷以後を識別するには天井レベルでの平面図が決め手となるからだ。

 

一方『報告書』には、古い図面と思しき小さな写真もあり、それには図面(A)より切りのいい柱間寸法(尺)が辛うじて読み取れる。

 

その他、グラビアページには解体修理を思わせる以下のような場面がある。

 

1.内内陣の柱には今までの美術史教科書で馴染みのない絵が描かれ、しかも中断された絵の途中から新しい柱が継ぎ足されている。

 

2.周辺より明らかに新しい(江戸時代?)木材の天井、柱、組物に描かれた絵は拙劣で描写を中断したまま、と思われるものもあり観音像後方の板壁の裏側に描かれた二十五菩薩来迎図と比べるべくもない。

 

3.風化のレベルが素人目にも明らかに異なる組物群が軒下に隣り合わせにある。

 

以上のことから、大和長谷寺の本堂は可能な限り創建時以後の具財を再利用しつつ、新築に近い大掛かりな解体修理によって1650年に建立されたと結論したい。

 

本堂大改修の資料はあっても公開されないし、決め手となるC14によるチェックも行われないであろう。

 

 不明な点が多すぎるせいか、深く切り込んだ考察は為されていないようだ。